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ろう者の自己探求「デフフッド」とは?―松﨑丈さんインタビュー【後編】

「なぜろう学校で手話が禁止されていたのか」前編では、ろう教育で手話が禁止されていた歴史とその背景について、宮城教育大学教育学部教授の松﨑丈さんにお話をうかがってきました。

手話が禁止されていた歴史の背景には、聞こえる人を中心とするような考え方がありました。そうした意識は、今の社会にも根強く残っているのではないでしょうか。

マジョリティである聴者中心の社会で、ろう者はどのように自分たちの言葉や生き方を守っていけばよいのか。「デフフッド」という考え方を元に、松﨑さんと考えます。(インタビューを前編から読む)

松﨑丈さん(佐々木想撮影)

松﨑丈(まつざき じょう)さん

宮城教育大学教育学部教授。専門は教育心理学、特別支援教育、障害学生支援。1977年広島県生まれ。ろう者で、先天性風疹症候群による重度の感音性難聴。宮城教育大学大学院教育学研究科修士課程修了後、東北大学大学院教育学研究科博士後期課程修了(博士:教育学)。2005年より宮城教育大学で特別支援学校教員養成に取り組む。

※本編は動画でもご視聴いただけます。松﨑さんの手話によるお話をぜひご覧ください。

「デフフッド」の概念とは

――松﨑さんは「ろう者が自分らしく生きるとは何か」を問い直し、自分のアイデンティティを見つめ直す「デフフッド」という概念を、学校教育に導入することを提唱されています。これはどのような考え方なのでしょうか?

まず、「デフフッド」という手話は、このように表します。

「デフフッド(Deafhood)」を表す手話

「デフフッド」という言葉は、イギリスのろうの研究者、パディ・ラッド(Paddy Ladd)が考えました。端的に言うと、「ろう」である自分を探求するというプロセスのことです。

ラッドはろうの人々が聞こえる人々に囲まれて生きていく状況について細かく分析し、聞こえる人々の考え方や文化、マナー、ルールなどにはろう者を抑圧するような構造があるのではないかという研究を進めました。

たとえば、前編でもお話しした点ですが、イギリスにも(手話よりも)音声言語のほうが良いという考え方が強くありました。

ろうの子どもたちには口話法が厳しく指導され、本当は手話のほうが合っていたとしても「手話ではなく声で話しなさい」と叱られました。子どもたちは我慢して声を出す練習をしていました。

ろう学校で働くろうの先生は、声で教えることはできず、手話を使ったほうが教えられるのですが、聞こえる人々がそれを見て「(声で教えられない先生は)必要ない」として解雇していった流れもありました。

そういう状況を見たろうの子どもたちが「ろう者は抑圧される」とか「ろう者が自分らしく生きることは難しい」と考える状況がありました。

ラッドはろうの子どもたちが自分らしく納得して生きていくこと、自分らしい姿は何なのか探求を進めるためには、周りの環境をどう変えればいいのか、もっと考えていく必要があるのではないかと考えたのです。

――ラッドがこうした考え方を提唱した背景には、どのような問題意識があったのでしょうか。

おそらくですが、ラッドはろう者が置かれている状況について、聞こえる人々が「正しい」というような、あるいは聞こえる人々のほうが「普通」でろう者は「変」だから治さないといけないというような考え方が強かったことに違和感があったのだと思います。

ろう者は音声言語に代わる手話という言語を持っていて、また文化もあります。そのことをきちんと、周囲から理解してもらう必要があります。

そのために、たとえば手話を覚えてもらうとか、ろう文化を知ってもらうことだけでなく、ろう者が自分らしく生きていくことを、それが本当にできるのかという問いも含めて伝える意味があったのだと思います。

インタビューに応じる松﨑丈さん。メガネをかけ、紺色の服を着て、手話またはジェスチャーを交えながら語っている姿。
松﨑丈さん。宮城教育大学の研究室にて。(佐々木想撮影)

デフフッドを基盤とする教育

――デフフッドの視点を生かした「ろう教育」の実践例には、どのようなものがありますか?

ラッドの専門は「ろう者学」と言って、ろう者の文化や社会の様々な問題を研究する学問です。ろう学校に取り入れる方法については、教育の問題になるのでラッドは語っていません。

私はろう教育が専門なのですが、ラッドの考え方を教育現場に導入するため、両者を結びつける概念が必要だと考えました。それが「ヒドゥン・カリキュラム」です。

ヒドゥン・カリキュラムとは、「隠れたカリキュラム」という意味です。たとえば、学校で使われる教科書には色々な内容が載っていますね。国語の場合には文章を読んだり、算数の場合には計算方法を身につけるなど、勉強に必要なものが載っています。一方で、はっきりとは載っていないことで、子どもたちに様々な影響を与えるものがあります。

たとえばLGBTQ(性的マイノリティ)について、最近ではその存在に関する認知が広がっています。しかし、以前は家庭科などの教科書に、「結婚をして子どもを生んで育てる」という記載がありました。それは「男女が結婚する異性婚が当たり前だ」という考え方が教科書に載っているということで、LGBTQ当事者である子どもが読めば「自分はダメなのだろうか」と抑圧されることになります。

このような教育現場では、LGBTQ当事者の子どもは自分がどう自分らしく生きていけばいいのか分からず、自分探しができなくなってしまいます。文部科学省がその点を検討し、現在の教科書には、LGBTQに関する情報の掲載が増えています。たとえば家庭科では同性婚もあるということや、国語でもLGBTQとは何なのかという説明を含めるなど、変わってきています。

こうした変化により、LGBTQの子どもたちが「自分はダメではない、自分もいていいんだ」と自分探しをスムーズに進められると思います。

また、教科書だけでなく、先生方の考え方や価値観が子どもに影響することについても考える必要があります。そこに含まれる悪い影響についても考察することが、ヒドゥン・カリキュラムの考え方です。

聞こえない子どもたちについても、同じことが言えます。たとえば、国語の教科書に掲載された、虫の探し方についての説明文に、虫の声を聞いて「あ、見つけた!」という文章がある場合、それは聞こえる人たちの方法です。ろう者の場合、虫の声は聞こえません。

ヒドゥン・カリキュラム「ろう・聴覚障害に関わる視点・価値がない」国語の教科書などで「虫の探し方→虫の声を聞いて見つける」と記載されている場合、ろう・聴覚障害の子どもたちが「自分にはできない」「自分とは違うのか」と感じ、「自分がどう自分らしく生きていけばいいかわからない/自分探しができない」状態に陥るプロセスを示した図解。

その文章の主語が「私たち」となっていた場合、「私たち」と言っているけれど自分とは違うのかなと、聞こえない子どもが混乱してしまうことがあります。もし先生があまり深く考えずにその文章を授業で出した場合、「自分には虫の声が聞こえない、文章に出てくる人たちと自分は違うのか」と、どう受け取っていいのか分からず、自分探しの壁になってしまいます。

先生方がヒドゥン・カリキュラムの考え方を持って、何か少し工夫が必要だと考え、「この教科書には音を使った虫の探し方が載っています。みんなはどういう方法で探しますか?目を使うよね。目を使う方法もあるよね。」というように幅広く説明してあげたほうが、ろうの子どもたちにとっては「そうか、色々な方法があるね」と自分探しの幅が広がると思います。

「ヒドゥン・カリキュラム:ろう・聴覚障害に関わる視点・価値を含む」の構造図。国語の教科書などで「虫の探し方→耳を使う、目を使うなど色々な方法がある」と記載されている場合、ろう・聴覚障害の子どもたちが「自分にもできるかもしれない」「自分はダメではない」と捉え、「自分探しが拡がる」プロセスを示した図解。

このように、教科書が聞こえる人の考え方や価値観だけになっていないか分析し、そうなっている場合にはヒドゥン・カリキュラムの考え方で変えていく。デフフッドの考え方の場合、自己探求を進めるための後押しが必要になるので、「ろう者だったらどんな方法があるのか、どういう価値観があるのか」ということを補足して説明することができるといいなと思います。

教育現場で広がる実践

――こういった実践は、ろう教育の現場でも広がっているのでしょうか?

実践例は増えてきています。たとえば中学校の家庭科の教科書では、家庭生活というテーマで家の中の部屋や間取りについて取り上げています。部屋の壁について、聞こえる人の場合は壁があっても声だけで会話ができますが、ろう者の場合は視線を合わせる必要があるので壁があると遮られてしまうことから、「壁がない家もあるのではないか」といった考え方を含めたり話し合いができるようになっています。

また、英語の授業では、はじめに自己紹介をしますよね。「こんにちは。あなたの名前は何ですか?」のような会話の場面があります。しかし、それはお互いに聞こえる人の場合です。聞こえない人の場合、初めて会ったらまず「私はろう者です」と伝え、コミュニケーションを確認したあとに名前を言う流れがあります。その場合「私はろう者です」という英文「I’m Deaf」を加えればいいですよね。

理科では感覚のテーマで、視覚、聴覚、嗅覚、味覚などについて学びますが、その際にろう者の場合は(手話で言うところの)『目が高い』のです。『目が高い』というのは、聞こえる人と比べてろう者の方が視覚情報をたくさん把握できたり、人の顔を覚えるのが得意だったりと、視覚において得意なことがあるということです。そういう情報も含めた方が、ろうの子どもたちが「自分は聞こえないんだ」というだけではなくて、「聞こえないかわりに目をすごい使えるんだ」といった大きな発見になると思います。

手話を交えて質問に答える松﨑丈さん。メガネをかけ、紺色の長袖服を着て話している様子。
松﨑丈さん。宮城教育大学の研究室にて。(佐々木想撮影)

こうした実践により、子どもが教科書での勉強も面白いなと感じることにつながります。たとえば社会科の歴史の時にも、これまでは聞こえる人の歴史の勉強というイメージがありましたが、先生から「歴史上も聞こえない人がいたんだよ」という情報を説明するとより興味を持てると思います。

教科といえば聞こえる人の考え方、価値観、文化を教わるというイメージが強かったと思いますが、今は聞こえる人の文化とろう者の文化の両方を一緒に学び、その中でこれは自分に合っているなとか、面白いなと自分探しが広げられる、いい雰囲気に変わってきていると思います。でも、実践しているろう学校の数はまだまだ少ないです。今後、日本全国のろう学校にこうした実践が広がっていくことを目標に進めたいと思っています。

自分が納得できる生き方を探すために

――デフフッドの考え方は、ろう者の方の学びだけでなく、生き方にも影響が及ぶものでしょうか。

そうですね。自分が納得できる生き方は何か、探求することにつながると思います。

これまでは、ろう者が自分の生き方や、納得できる考え方は何だろうと探求できる範囲がすごく狭かったですね。手話やデフフッドの考え方を導入した教育が広がっていけば、その幅を大きく広げることができると思います。

それぞれが自分らしい生き方を探すことができ、最終的にどういう姿になるかは個人個人に任せられますが、その姿になるためのプロセスの中で、自分と同じろう者に関する情報や生き方が色々紹介されたり共有されていて、それを学んでいくという経験の機会をたくさん作ることが大切だと思います。

ろうの子どもたちが求めているものは何なのか、まだまだ日本ではわかっていないことが多いです。手話を覚えればいいということだけではなく、様々な生き方があるということも、皆さんにも一緒に考えてもらいたいと思います。

――私たちも引き続き、考えていきたいと思います。今日は本当にありがとうございました。(インタビューを前編から読む)

宮城教育大学の研究室にて、デスクの前に座りカメラに向かって微笑む松﨑丈さん。メガネをかけ、紺色の長袖シャツを着用。背景にはプリンターや本棚が並んでいる。
松﨑丈さん。宮城教育大学の研究室にて。(佐々木想撮影)

※本編は動画でもご視聴いただけます。松﨑さんの手話によるお話をぜひご覧ください。

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(2026.10.13 / 取材・執筆 伏見和子、 取材・手話翻訳 庭野登紀子、撮影 佐々木想)

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