パレスチナ・ガザ地区の現地取材パートナーであるアマルさんに、記事を寄稿して頂きました。イスラエルによる突然の爆撃から2カ月、「天井のない監獄」と揶揄されるガザ地区に生きるアマルさんの目には、その日常はどのように映っているのか――。
5月の戦争から2ヶ月が経過しました。私たちはいまだにその被害からの復旧、復興に全力を注いでいます。停戦に合意したというのに、戦闘機の音は昼も夜も空を震わし、いまだに爆撃が行われることもあります。
物資を搬入するゲートは閉じており、不安定な情勢を伝えるニュースを日々耳にします。ガザ地区内の物価は上昇し、また新たな戦争が始まるのではないかと人々は噂します。きっとイスラエルは、「また戦禍に晒されるかもしれない」という恐怖を私たちに植え付けようとしているのです。そしてそれは、残念ながら成功してしまいました……。
ひとことで語ることのできない悲劇
瓦礫を撤去する作業は終わりが見えず、多くの道路が塞がれています。隣国のエジプトが、そうした瓦礫を撤去するための重機を派遣してくれました。なぜならガザ地区には、そうした重機が十分に存在しないからです。
コンクリートの破片をひとつ取り除くたびに、そこで起きた悲しい出来事が物語られます。何の罪もない人々が殺され、生き残った人々も、家を、職を、そして思い出を奪われたのです。
SNSのタイムラインは、そうした悲劇であふれています。ある男性が、自分の花嫁へ向けたメッセージを投稿しました。その男性は、数日後に結婚式を迎える予定だったのですが、花嫁は理由もなく殺されてしまったのです。ある投稿には、粉塵にまみれた夕ご飯の食卓を写した写真が添えられていました。5人家族が家で食事をしていたのですが、彼らは全員殺されました。ある動画には、息子に向けた、父親からのジョークに満ちたメッセージが映っていました。ふたりとも、爆撃に巻き込まれ命を落としました。
それぞれの悲劇をひとことで語ることはできません。そのひとつひとつが私たちの胸をえぐります。11日間の爆撃で、65人の子ども、39人の女性、17人の老人を含む232人の命が奪われました。そして560人の子ども、380人の女性、91人の老人を含む1,900人が重症を負い、78,000人が家を追われ、28,700人が避難所に身を寄せています。3つのモスクが完全に破壊され、40のモスクとひとつの教会が一部損壊しました。1,400もの家が倒壊し、13,000の家が被害を受けました。
子どもたち、女性たち、一般市民とその家々や職場……それらがイスラエルの「攻撃目標」だったのでしょうか?彼ら・彼女たちのすべてがテロリストだとでも言うのでしょうか?
新たなナクバ(大災厄)
地中海に面するガザの海へ行くと、人々のざわめきが聞こえてきました。
この状況はいつになったら変わるんだ?
イスラエルはいつ私たちを殺すのを止めてくれるだろう……
ガザ地区の隔離は終わらない?
いつになったら自由になれるというんだ!
この恐怖に終わりはあるのだろうか……
私はそれを聞いて、足早にその場を離れました。なぜならそうした声は、私自身の心の叫びでもあったのですから。私はそうした現実を忘れるために、海岸を歩きたかったのです。
海外の友人が、私にこう尋ねました。「ガザ地区の人々は、こんな恐ろしい戦争のあと、どうやって希望を持ち続けられるというのですか?」。
最近の日々のことを、私は“新たなナクバ(※)”と呼んでいます。1948年、イスラエルの兵士たちは私の祖父母を故郷の土地から追い出しました。祖父母は現在のガザ市へ、難民となり逃れてきたのです。イスラエルは、イギリス政府の承認の下、祖父母の大切な人々を殺し、土地を奪ったのです。
(※)ナクバ
1948年、イスラエル建国に伴い70万人以上のアラブ人らが故郷を追われた。その日付である5月15日は「ナクバ(大災厄)」と呼ばれ、毎年各地で抗議デモなどが行われる。
国際社会はそうしたイスラエルの侵略行為に声をあげましたが、結局止めることはできませんでした。そのために今でも、より一層過酷な形で“ナクバ”が続いているのです。分離壁、戦争、罪のない子どもや女性たちの不当逮捕、電力や水資源の不足、高い失業率、自由な移動を妨げるチェックポイント、不当な殺人……。
数々の困難により、人々はベルギーやカナダ、トルコなど、国外に安住の地を求め、この土地から離れていきます。もちろん私たちは、安全な住処を願ってやみません。けれど、このような形で人々がパレスチナを離れていくばかりでは、イスラエルの思うつぼではないでしょうか。「彼らは勝手にその土地を離れたんだ」「イスラエルのせいではない」と、そのように国際社会に映るよう演出しつつ私たちを追い出すことが、イスラエルの目的なのだと感じます。
ヨルダン川西岸地区では、日々イスラエルの“入植地”が増え続けています。ですがパレスチナに生きる人々は、毎日の困難に向き合うことで精一杯で、こうした不正義に抗うには、余力が無さすぎるのです。ここでの日々はあまりにも厳しく、そして様々な問題はあまりにも複雑で、伝えるのがとても難しいと感じてしまいます。
私たちは“テロリスト”ではありません
私は生後半年の赤ん坊の母でもあります。幼い息子のことを考えると、より安全な場所、より快適な場所を求めて国外へ移住したくなる気持ちもあります。それと同時に、イスラエルの占領政策には絶対に屈したくないという思いと、奪われた祖父母の故郷に戻る権利を守り続けたいという思いもあり、その矛盾した願いに身が引き裂かれそうになることがあります。
イスラエルは人々の力を奪うために、パレスチナをガザ地区、西岸地区、そして東エルサレムに分断しました。それぞれの自由な行き来はイスラエルによるチェックポイントで分断されています。国際社会はこの現状をきちんと理解し、イスラエルの横暴な政策に声をあげる責任があるでしょう。残念ながら、多くの国々はパレスチナ人を“テロリスト”と扱い、入国を許しませんし、国連における議決権(※)も与えられていません。
(※)国連における議決権
2012年11月、国連総会はパレスチナを「オブザーバー国家」とする決議案を議決した。「オブザーバー国家」とは、原則として国連での議決権は持たないが、議決案の作成に関わることはできるとされる。これをもって国際社会から「国家」として認められたと見る向きもあるが、イスラエル、アメリカを筆頭に反対している国々もある(国連総会の議論に参加する権利自体は1998年に付与されているが、「オブザーバー団体」としてであり、「国家(State)」という枠組みではなかった)。
イスラエルの侵略に抵抗するパレスチナの人々は、テロリストではありません。彼らは占領に抗い、少しでも現状を良くしようと声を上げ、殺されていきます。彼ら・彼女たちは、不正な投獄や人権侵害、貧困、占領政策と戦っているのです。多くの国々から“テロリスト”と呼ばれるこうした人々は、大切な人々と安全な場所で暮らすことを夢見ているのです。けれどイスラエルは、彼らにそうした権利を与える代わりに、投獄し、殺し、破壊することを選んでいるのです。
明日の予定も立てられない
戦争の記憶というものは、幾多の年月を経ても消え去ることはありません。2017年、私は国際団体などの尽力のおかげで、日本を訪問することができました。その日本の、とある駅のホームにいた時のことです。電車の音が、空爆の記憶を呼び覚ましました。戦闘機が家々を爆撃する様子が、生々しくよみがえったのです。爆発音こそありませんが、その音はまさしく、当時私が耳にした戦争の轟音のようでした。ガザ地区と日本は遠く離れていますが、海を超えて、戦争の記憶が私を震え上がらせたのです。
そうしたことがありながらも、私は日本に滞在しているときに、生まれてはじめて「安全」を感じることができました。「いつまた爆撃されるかもしれない」と、心配しなくていいのですから。そして私は、日本で出会った人々が、いかに将来についてきちんと予定を立てているかということを知り、驚きました。ガザでは、明日の計画を立てることすらできません。それは人々に能力がないからではなく、明日何が起こるか、私たちにはコントロールできないからです。
2018年のことです。ある日本人の医師が、ガザの患者を助けるために「1年後にガザを訪問する」と言いました。私はそれを聞いて笑ってしまいました。だって、1年も先のことなのですから!ところが彼は1年後、本当にガザへとやってきたのです。そのとき初めて私は、「ガザ地区の外では、何の問題もなく長期的な予定を立てることができるんだ!」と知ったのです。
ガザではそんなことは不可能です。2017年、本当は友人とふたりで日本へ訪問する予定でした。私がイスラエルから許可証(※)を得ることができたのは、出発前日のことでした。そして、友人には、ついに最後まで許可が下りなかったのです。
(※)イスラエルからの許可証
ガザ地区には空港がない(2001年にイスラエルが破壊)ため、外国へ渡航する際にはイスラエルを通過してヨルダン川西岸地区に行き、そこから隣国ヨルダンの空港まで行かなければならない。ガザ地区からエジプトへと出るゲートもあるが、こちらも通行許可を得ることは難しい。
私はここで、強く生きていきます
5月の戦争が始まる前、私たちはイード(犠牲祭―イスラム教の祭日)を迎えようとしていました。新しい服やスウィーツ、様々な伝統的な準備が整い、当日を心待ちにしていました。ところが、その前日に戦争が始まったのです。楽しみにしていた時間はすべて壊されてしまいました。私たちは祭日すら奪われたのです。
ある友人は、その1週間前に会社を立ち上げたばかりでした。しかしその会社の入ったビルにミサイルが直撃し、わずか数秒で崩れ去ってしまいました。イードに併せて計画されていた多くの結婚式はキャンセルとなり、大人たちは子どもに約束していたプレゼントを渡せませんでした。「明日の予定を立てる」ということが、ここではいかに難しいか、おわかりでしょう。
どうか、日々の一瞬一瞬を大切に生きてください。そして、パレスチナの現状にも声をあげて頂けると嬉しいです。私はここで、強く生きていきます。できる限り……。
(2021.7.23 写真・文章 アマル/翻訳・編集 佐藤慧)
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