ある日突然「容疑者」にされて ―実名報道とその被害について考える
2021年11月25日、海外から輸入された木炭約24トンに、覚せい剤が練り込まれていたことが警視庁から公式に発表された。覚せい剤の量が多量だったこともあり、新聞やテレビなど、各メディアでこの日のうちに報じられた。
報道によると、都内の港へ大量に持ち込まれた木炭を不審に思った東京税関の職員が検査を行い、覚せい剤が検出された。その後、警視庁が浜松市内の会社に木炭が運ばれるのを確認し、関係者と思われる5人を逮捕した。
逮捕された複数の男性のうちの一人が、木炭の一部が入ったコンテナが運び込まれた敷地を所有する会社の社長、ド・タイ・ツアンさんだった。ツアンさんは、容疑を否認しているにも関わらず、多くのメディアで実名や居住地、職業などを報道されてしまうことになる。現在は釈放されており、不起訴処分となる見込みだ。
ツアンさんの妻Aさんは、警察が会社の敷地にやってきた日の衝撃をこう語る。
「その日は会社を従業員に任せ、子どもたちのお遊戯会の日で、終わった後、一緒に外食していました。そんなときに知人から、“あなたの会社にものすごく人がたくさん集まってる”、“警察もいるようだ”と連絡がありました。何が何だか分からず、とにかく会社に向かいました」
ツアンさんはあまりの衝撃に運転することもできない状態だったという。会社にたどり着いた後、二人は別々に拘束され、取り調べを受けることになった。「幸せな日が、突然、地獄に突き落とされたようでした。その時はただ警察から、“いけないもの”が運び込まれたコンテナの中にあったと説明されました。けれどもその“いけないもの”が何なのか、明確な説明はありませんでした。ただその後、警察に薬物がないか家を捜索されたり、尿検査をされたりしました」。
二人がくたくたになって自宅へと戻ってきたのは午前3時近くになってからだった。二人の証言に不自然な相違点もなく、「正直に言えば自分の無実は晴れる、これ以上、警察から追及されることもないだろう」とツアンさんは思っていたという。
ところがその一週間後の早朝、まだ家族全員が就寝中に突然、自宅のインターホンが鳴り、警察からの着電があった。飛び起きてドアを開けると、何人もの警察官が玄関から押し入り、ツアンさんはそのまま逮捕されてしまったという。その時に初めて、コンテナの中身である木炭に、覚せい剤が入っていたことを知らされた。幼い子どもたち3人はまだ、眠っている時間だった。どうしたらいいのか、妻のAさんも頭が真っ白になってしまう。
「そもそも、空のコンテナを置かせてもらいたいという相談から、話がはじまりました」
ツアンさんは事件の経緯を一つひとつ、順を追って語ってくれた。
ツアンさんは2007年に来日し、主にベトナムへの農機具輸出を手がけている会社を経営していた。2021年5月に、今の会社の所在地である浜松市内の敷地を買い取って移ってきたという。外国人として事業を進めるためには、多くの人のサポートを必要とする。敷地の工事の関係で知り合ったのが、ブラジル国籍のB氏だった。そのB氏の仲介で知り合ったC氏らから、当初「空のコンテナ2つを敷地に置かせてほしい」と依頼され、日数と値段の交渉も済ませていた。ところがどの後、C氏からフォークリフト使用に関する相談を持ちかけられた。
「空のコンテナだけなら、フォークリフトは必要ないのではないか……?」
不審に思って確認をすると、中には炭が詰められているという。このやりとりが11月15日のことだった。ツアンさんはここできっぱりと、コンテナの運び込みを断っている。「そもそも約束と違いますし、まだしっかり施工も終わっていない敷地で、盗難などの被害が出てしまうリスクもありました」。
断った後も、C氏からはひっきりなしに連絡が届いた。11月16日、B氏とC氏はアポもなくツアンさんの会社に押しかけ、強引にツアンさんの説得にかかった。C氏とは電話やLINEでやりとりはしていたものの、そこで初めての対面だった。「税関も通っている。危ないものではないから」と書類も提示され、ツアンさんは「B氏にはお世話になったから」と、仕方なくこの依頼を受けることにした。
けれども税関を荷物が通過し、その後も運搬ができたのは、運び込み先を特定するために、警察が関係者を「泳がせて」ためだった。ツアンさんはそこに突然、巻き込まれてしまったことになる。荷物が運び込まれたのは、B氏とC氏が押しかけてきた翌日、11月17日のことだった。
この事件が警視庁からメディアに公式に発表されたのは、ツアンさんが逮捕された後だった。実名での逮捕報道が及ぼした影響は大きい。全ての大手新聞社がこの事件を報じ、実名報道をしていなかったのは、読売新聞社のみだった。そのストレスから今も、不眠に悩まされている。幸い、近しい人たちが傍から離れることはなかったが、それよりも距離が離れている人々の態度の変化は気がかりだという。金融機関に海外送金を止められてしまうなど、実生活、仕事に多大な損害が生じてしまっている。
一度配られてしまった新聞など、紙媒体の回収は難しいものの、ネット記事は一分一秒早い削除が求められるだろう。
ツアンさんの代理人を務める髙橋済弁護士によると、削除要請に迅速に対応したメディアもあれば、逆に「正式に不起訴処分にならなければ削除はできない」とそのまま掲載している媒体もあるという。通信社から配信された記事をそのまま掲載している地方紙のWEB版も多く、ニュースを転載したまとめサイトなどで“コピペ”され続けるリスクもある。
髙橋弁護士から削除を依頼しても、いまだ実名の掲載が続いている(※その後、12月29日に実名を削除)朝日新聞社に、下記の3点について問い合わせた。
1.容疑の段階での名前公表について、御社では何かガイドラインや指針はありますでしょうか
2.その後、不起訴にならなければ名前の記載は消さない、といったガイドラインはあるのでしょうか
3.報道によって既に発生している、ツアンさんの不利益(海外送金が止められてしまう、妻子含めて近所から偏見の目で見られてしまう、等)の回復のために、御社として何かお考えの措置はありますでしょうか
回答は下記の通りだった。
「朝日新聞の事件報道の指針では、実名報道を原則としています。個別の状況に応じて匿名化を検討することはありますが、容疑者を実名で報じた後に不起訴になったことが確認できれば、私人の場合は原則として記事を匿名化し、ご本人が実名での名誉回復を望めば、実名で続報を掲載するなどの対応例を掲げています」
ただ、いつ不起訴にするかどうかは、時効まで検事の手にゆだねられる。不起訴の判断に時間を要した場合、実名がさらされることでの被害は続くことになる。
「逮捕報道が流布されてしまった後、捜査機関が非を認めて“この人は関与がありませんでした”という釈明を手伝ってくれることはなく、弁護人の方から働きかけが必要です。それを金融機関側がどう受け止めるか、ですね」と、髙橋弁護士は指摘する。
「もともと“外国人=犯罪をする人”という潜在的意識が社会のいたるところにあるように思いますし、名誉回復は簡単にはいかないと感じます。そもそも未確定な情報を出してしまうという問題もありますし、出た後の回収に関しては、捜査機関もメディアも積極的な対応がありません。実名を削除したメディアの中で、事実経過の追記や名誉回復につながる記事を掲載したところはありません。せめてこうした不確実なものは匿名報道にするなど、なんらかのガイドラインの策定が必要かと思います」
Aさんは改めて、逮捕報道が一度出てしまったことの不安を語る。「私たちの子どもたちはまだ幼いですが、将来大きくなったとき、“お前の父親、逮捕されたんだろう”といじめに遭うかもしれないと思うと、恐くてたまりません」。
今でも子どもたちに、「お父さんはどうして逮捕されたの?」と尋ねられることがある。彼女たち自身の動揺も続いている上、Aさんもどう答えていいのか、言葉に詰まってしまうという。
報じる側にとっては、日々の仕事の中の「一瞬」かもしれないが、誤った形で名前を晒された側にとって、その被害は長期間に渡りつきまとってくる。なぜ、なんのためにそれを報じるのか?それを報じることで誰かの人権を無為に踏みにじってしまわないか?そうしたことを念頭に置いた指針が、各メディアで不可欠ではないだろうか。
(2021.12.27 / 写真・文 安田菜津紀)
ツアンさんは2021年12月28日付で不起訴となりました。
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