父の死後、戸籍を見て初めて、父が在日コリアンだったことを知りました。「なぜ父はルーツを語らなかったのか?」――その疑問から、ルーツをたどっていく旅が始まります。
この記事では、最初の「旅」ともいえる、高校時代のカンボジア渡航についてお伝えします。
頭を圧するような日差しの下、ぬぐっても、ぬぐっても汗が止めどなく流れてくる。2003年8月、タイからカンボジアへ、私は生まれて初めて歩いて国境を越えようとしていた。
徒歩での国境越え、というと、わくわくする冒険のような響きに聞こえるかもしれない。けれども当時の私には、それを味わう余裕などなく、目に映る世界を受け止めるだけで精一杯だった。
カンボジアからやってくる人々は、衣服や野菜、市場へ売りに出すあらゆるものをかついで、経済的により豊かなタイ側へと足早に歩いていく。荷車に果物を載せた人々とすれ違うと、それまで嗅いだことのないような独特の甘酸っぱさが漂った。私は彼らとは逆方向に、砂ぼこりをかきわけるように進んでいった。
カンボジアへと国境を越えたとたん、私の周りにわっと人だかりができた。大人から子どもまで、中には手や足がない人もいる。長年にわたる内戦を経てきたこの国で、地雷の被害により体の一部を失った人たちを、この後も私は何度も目にすることになる。
私たちの方へ駆け寄ってきた人たちは皆、必死の形相でこちらに手を伸ばす。「お金を」と訴えているのだと、言葉が分からなくてもすぐに察しがついた。どう振る舞えばいいのか、何をすれば「失礼」にあたらないのか、ただただ戸惑いながら、「ごめんなさい、ごめんなさい」とだけ繰り返し、私は逃げるように隣町へと向かうバンに飛び乗った。
当時高校2年生だった私は、日本に拠点を置く認定NPO法人国境なき子どもたち(KnK)の「友情のレポーター」としてカンボジアを訪れていた。国境なき子どもたちは、アジアの国々で教育支援に力を注ぐ団体だ。「友情のレポーター」は、11~16歳までの日本在住の子どもたちを、活動地に取材派遣するプログラムだった。
元々、海外に強く関心を抱いていたわけでも、人助けをしたいという意識を持っていたわけでもない。とにかく、「違う環境」に身を置きたいという身勝手な気持ちで、私はこのプログラムに応募した。
私の家族は、父、母、異母兄、私、そして妹の5人だった。父は東京のサラリーマン街で、小さいながらも鰻料理店を営んでいた。細長い店内に並ぶカウンター席、少し薄暗いけれどタレのいい香りがする厨房、それが幼い頃の私の「居場所」だった。活気に満ちた店の中で、顔を赤らめた会社帰りの客たちが陽気に語り合う様子を見ながら、この場を取り仕切っているのが自分の父であることを、子どもながらに誇らしく思っていた。
父の帰りはいつも遅く、私が起きる頃にはまだ、いびきをかいて深い眠りの中にいた。それでも父は、私が構ってほしさにお腹の上に飛び乗っても、嫌な顔ひとつせず頭をなでてくれた。髭をそるのが億劫だったからか、頬ずりされるとじょりじょりとした感触でほっぺが痛くなり、「お父さんそれ禁止!」と、私は口を尖らせた。父はその顔を楽しむかのように、優しい笑みを浮かべるのだった。
13歳年が離れた兄はすらりと背が高く、寝ぼけ眼で起きてくる朝、部屋の扉の上枠に頭をぶつける姿を何度見ただろう。スポーツが得意で、中学時代に中距離走で取った賞状が、家の目立つところに飾られていた。物静かで、家では黙ってテレビを観ているか、一人で部屋にいるかだった。
時折顔をのぞき込んでみるものの、表情がなかなか読めない。それでもぱちっと目が合うと、「なんだよ?」と、いたずらっぽく笑い返してくれた。その度に、「ああ、笑ってくれた」と、なぜかほっとした気持ちになるのだった。やがて私が小学校に上がる頃、兄は一人暮らしをはじめ、父と同じように飲食の仕事に就く。
無口で不器用な父と、気が強い母の間には、いつしか口喧嘩が絶えなくなっていった。そして私が小学校3年生のとき、二人は離婚し、母、私、妹は東京を離れ、母の実家近くの横須賀に引っ越していく。それからの母はパートを掛け持ちし、朝の新聞配達までこなして家計を支えた。空がうっすらと白んできた頃、母が配達から帰ってきた自転車の音ではっと目を覚ますこともあった。
こうして離れて暮らす間にも、私は時折東京を訪れて、父や兄と食事をしたりしていた。ところが中学2年生の秋頃、父からの連絡がぷっつりと途絶える。「もしかして切り捨てられてしまったのだろうか」「私たちは父にとって〝必要のない存在〟になってしまったのか」ー そんな思いが頭をもたげては、踏み込んで考えることが恐くなり、私は急いであふれ出しそうな感情に蓋をした。なぜ父は、音信不通状態になったのか。その理由はすぐに、思わぬ形で私に伝わることになる。
小雨がぱらつく肌寒い11月の夕方、学校から帰ると、家には誰もいなかった。ふと、リビングの電話を見ると、FAXが届いているのが目に入った。どこから来た、どういう内容の物だったのかは、もう覚えていないし、そのときもきっと認識できていなかっただろう。ただ、そこには確かに父の名前と、「死亡」という文字が並んでいた。頭で理解するよりも体が先に反応し、ほぼ反射的に泣き崩れた。
母たちの帰宅後、ただならぬ空気を妹に感じさせないよう、こっそり母だけを呼び出した。
「ねえ、お父さん、生きてる……?」
そう絞り出した途端、また涙がこみ上げ、声が続かなかった。体の震えが止まらない私を、母は黙って抱きしめながら、言葉を必死で探しているようだった。長い沈黙だった。そして動揺を抑え込むようにふっと深呼吸をすると、たった一言、私にこう語りかけた。
「私たちには、明日があるから」
翌日、学校に向かう通学路を歩いてみても、体はどこかふわふわとしていた。地面に足がついていないかのように、全身の感覚が薄れていた。元々学校が好きではなかった上に、自分でも言語化しきれていない気持ちを、ほかの誰かに受け止めてもらえるとは思えなかった。数人にだけ「父が亡くなった」とごく簡単に伝え、心を殻の中に閉じ込めた。
父の葬儀の連絡は、私たち家族には届かなかった。彼にはもう、別の家庭があったからだ。考えてみればあのFAXが届いたとき、父の死からすでに数週間経っていた。母はなぜ、言い出せなかったのだろうか。あの当時、母と会話した記憶はほとんどない。お互いに、父のことを話題に出すのが恐かったのだろう。
そして中学3年生が終わろうとしていた3月、父に続いて兄がこの世を去った。3月12日、父の誕生日だった。兄も父と同じように、自分のことを多く語る人ではなかった。母も事情をよく知らず、ある日の夕方、「亡くなったみたいよ」とだけ、手短に伝えてきた。あまりに唐突すぎて、もはや感情が動かなかった。なぜ、どのように亡くなっていったのか、そして、私たちのことをどう思っていたのか、ほとんど何も分からないまま、「曖昧な喪失感」だけが残った。
その「喪失感」をどこかで埋めたかったのだろう。「友情のレポーター」の知らせを聞いたとき、全く違う環境に生きている同世代の生き方が知りたいと、真っ先に応募を決めた。それは、明らかに自分本位な気持ちだった。だからこそ、「心の準備」ができていなかったのだ。無防備だった私の内面に、この地で目にする厳しい現実が、ぐさぐさと突き刺さっていった。
カンボジア滞在中、私がともに多くの時間を過ごしたのは、国境なき子どもたちが運営する青少年自立支援施設「若者の家」に身を寄せる、同世代の少女、少年たちだった。貧困や虐待など、様々な事情から家庭で暮らせない彼ら彼女たちは、「若者の家」で生活しながら、学校や職業訓練に通い、将来への道を切り開こうとしていた。
その当時、「第2の都市」と言われていたバッタンバンでも、大型ビルなどほとんどなく、小さな商店がひしめき合うマーケットが街の中心だった。その市街地からほど近い、木々に囲まれたふたつの「家」に、男女それぞれ15人ほどが暮らしていた。ゆったりとした中庭で思い思いの時間を過ごしていた何人かが、私たちの姿を見るなり、わっと駆け寄ってきた。国境での経験が頭を離れず、一瞬身構えた私を、彼らは丁寧に出迎え、自分たちの部屋へと案内してくれた。
当時全くクメール語が分からなかった私は、彼らがそれでも諦めず、身振り手振りで何かを伝えようとしてくれるだけで、じんわりと心の中が温まった。出会う前に、「きっとこれから会うのは〝かわいそうな子たち〟なんだろう」とレッテルを貼り、彼らを覆ってしまおうとしていた自分が、たまらなく恥ずかしくなった。
やがて彼ら彼女たちのうちの何人かが、過去に人身売買の被害に遭っていたことを知る。
カンボジアには、隣国のベトナム戦争に巻き込まれるように戦場と化していった、凄惨な歴史がある。大国に翻弄され、国内ではポル・ポト派による虐殺によって多くの人命が奪われてきた。
「戦後」を迎え、復興へと歩みながらも、破壊されてしまった社会の基盤を修復していく道のりは、決して平坦ではない。そのひずみが貧困という形で、容赦なく子どもたちにのしかかっていた。
農村部の子だくさんの家庭に、人身売買業者は巧みな言葉で近づいていく。「学校に行かせながらお子さんを働かせてあげますよ」「お母さんの力だけじゃ、子どもを学校に行かせられないんでしょう?」と。売られていった子どもたちは当然、学校に行けるはずもなく、過酷な労働を強いられることになる。
そんな彼女たちは、「自分はこんな大変な経験をしたんだ」と、「自分」のことを真っ先に話さない。それよりも、家族のためにいち早く就ける仕事は何か、そのために選ばなければならない職業訓練は何か、ということを懸命に私たちに語ってくれた。一方で、「助けて」の声を溜め込み、心の中に抱え込んでいるようにも見えた。一人ひとりの話に耳を傾けながら、「いつか、自分自身のためにも生きてほしい」と願わずにはいられなかった。同時に、自分以外に守りたいものがある彼ら彼女たちは、強く、優しく、そして大きくも見えた。
かたや「先進国」と呼ばれ、物が溢れる日本から来た自分は、どうだったろうか。「なぜ家族はもっと優しくしてくれないのか」「なぜ友人たちはもっと理解してくれないのか」と、自分を起点にしか考えず、広いはずの世界を狭めていたのかもしれない。だから、脆かったのだ。
もうひとつ大切な気づきとなったのは、カンボジアで出会った人たちが語る「家族」の定義の大らかさだった。例えば農村やスラム街を訪ねると、小さな家々のドアは開け放たれ、中にはたくさんの子どもたちがいた。「皆、あなたのお子さんたちですか?」。お腹の大きなお母さんに尋ねると、「うーん、この子はうちの子で、こっちの子は隣の家の子、えっとこの子は……分からないけどまあ、いいわ」とケラケラ笑うのだった。
街中で話し込んでいる人が、顔見知りと思いきや、実は通りすがりの他人同士、という場面を目にすることも少なくなかった。人と人とはもっと、自然体でつながり合えるのだと教えてもらったように思う。
だからだろう。10日間の滞在を終え東京に降り立つと、それまで感じたことのない「違和感」が湧き上がってきた。なぜ誰も目を合わせずに、ひたすら先を急いでいるのだろう。なぜ、こんなにもたくさんの人がいるのに、私は「寂しい」と感じているのだろう……。
人込みの中でめまいに襲われ、思わず道端でうずくまった。カンボジアで経験した緩やかなつながりの心地よさが、ほんの短い滞在の中でも、私の心身に自然となじんでいたのだ。
帰国後、私は「自分の家族としっかり向き合おう」と心に決めていた。けれどもふいに見舞われたその「めまい」には、より根深い何かが巣くっているようにも思えた。「家族とは何か」と模索していくことで、いつかあのざわめきのような「違和感」の正体がつかめるだろうか。
これが、私の「旅」のはじまりだった。
※「国境なき子どもたち」2023年夏の「友情のレポーター」は5月15日まで応募を受け付けています。
▶https://knk.or.jp/kids/apply/
書籍情報
【2023年5月8日発売】
安田菜津紀 著
『国籍と遺書、兄への手紙―ルーツを巡る旅の先に』
ヘウレーカ
2,090円(税込)\各所で刊行記念イベントも開催決定!/
▶イベント詳細はこちら
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