夏休みにかんがえる「戦争」のこと
夏休みにかんがえる「戦争」のこと
ギラギラ輝く太陽と、青空にモクモクと立ち上る入道雲。小学生や中学生のみなさんは、夏休み真っ最中ですね。長いようで、あっという間にすぎてしまう夏休み、ちょっぴり時間をとって「戦争のこと」について考えてみませんか。
78年前、おばあさんやおじいさん、ひいおばあさんやひいおじいさんが子どもだったころ、日本はアメリカや中国(当時は中華民国)と戦争をしていました。それだけ聞くと、「遠い昔のことだ」と思うかもしれません。でも、本当にそうでしょうか。実はその70年以上前の戦争がもたらした悲しみや苦しみは、今も消えていません。また、世界を見渡せば、今も色々なところで「戦争」は起こっています。「海も向こうのことだ」と思うかもしれません。でも本当に、海のこちら側にいる私たちには関係がないことなのでしょうか?
このページでは、Dialogue for Peole (D4P)が、今まで色々なところで「戦争」について取材してきたことをまとめました。3つのステップを通じて、戦争によってどんなことが起こってしまうのか、私たちにできることは何なのか、一緒に考えていきましょう。おすすめの本や、ぜひあしを運んでほしい場所も紹介します。ついでに読書感想文や自由研究なんかも進められたら、一石二鳥になりますね!
【目次】
● ステップ1:よんで考える
・ 原爆のこと
・ 沖縄のこと
・ 世界の戦争
● ステップ2:あしを運んでみる
● ステップ3:だれかに伝えてみる
それでは、さっそく「戦争のこと」について考えていきましょう。とはいえ、いきなり「戦争」と言われても何からはじめたらいいのやら。そこで今回は、「原爆のこと」と「沖縄のこと」に注目します。どちらも78年前の日本の戦争で起きたことです。小学校の教科書にものっているので、「もう知ってるよ」という人もいるかもしれません。でもきっと、「これは本当に〇〇だろうか?」「どうして〇〇なのだろうか?」と、たくさんハテナをつくりながら考えていくことで、知っていると思っていた世界には、もっと広がりがあることに気づくはずです。
記事の中身は少しむずかしいかもしれませんが、気になったらどんどんよんでみてください。
原爆は、もうずっと昔のこと?
1945年8月6日に広島、9日に長崎へ投下された原子爆弾。いっしゅんのうちに建物は吹き飛び、1年もたたないうちに広島ではおよそ14万人、長崎では7万人が亡くなりました。
でも実は、投下から何十年がたった今も、原爆は人びとを苦しめつづけています。長崎に原爆が落ちたとき9さいだった岩永千代子さんもその一人です。爆発のときには大きなケガもなく無事でした。しかし、1週間もすると顔がパンパンにはれたり、のどが痛くなったりと、おかしな症状が次々と出てきました。これらは、原爆から出た目に見えない放射線が体の細胞を傷つけたことであらわれる症状です。その後、50さいになってからも、放射線の影響がうたがわれる症状はあらわれつづけました。
けれども、岩永さんは日本政府から「被爆者」とは認められていません。原爆が落ちたときにいた場所が、政府の決めた「被爆者」のはんいの外だったからです。症状は同じでも、病院での治療費は国から支援が受けられず、自分で払わなければいけません。岩永さんは、被爆者認定を求めて裁判を起こしましたが、国は認めようとせず、今も裁判はつづいています。
政府はいったいなぜ、原爆による被害を受けた人たちをきちんと助けようとしないのでしょうか? 放射線は残っていない。だから放射性物質がついた野菜を食べたり、水を飲んだりして体の中から被ばくすることもないーー。その考え方は、「原爆は地上からじゅうぶん離れた高いところで爆発させたので、残った放射線によって苦しむ人はいない」といったアメリカと同じものです。
日本政府は今、アメリカと一緒に「原爆を含む核兵器は戦争を止めるために必要」という考え方に賛成しています。
原爆がもたらす被害の取り返しのつかなさや、今も苦しみつづけている人たちに、まず日本が向き合わない限り、78年前の原爆は、「教科書にのっている昔のこと(終わったこと)」とは言えないのではないでしょうか。
被爆者のさまざまな背景を考える
16さいのときに広島で被爆した李鐘根(イ・ジョングン)さんには、70年近くもの長い間、ずっと隠しつづけてきたことがふたつありました。
ひとつは、自分が被爆したこと。鐘根さんは、1945年8月6日の朝、仕事にいく途中で被爆しました。なんとか命は助かったものの顔や首に大やけどをおいました。しかし、その経験を人前で語るようになったのは、2012年、80さいをこえてからのことです。
もうひとつは、朝鮮半島にルーツがあることです。当時、日本は朝鮮半島(韓国と北朝鮮がある場所)を「植民地」として支配していました。もともと暮らしていた朝鮮の人々は、土地を取り上げられ、朝鮮語ではなく日本語を話すように命令され、教育されました。農家だった鐘根さんのお父さんの家族は、生活が苦しくなり、日本へ渡りました。そして日本で生まれたのが鐘根さんです。
でも、鐘根さんは、自分の出自を誰にも言わないようにしてきました。「李鐘根」という民族の名前ではなく、「江川政市」という日本の名前を使いつづけ、あこがれだった鉄道の仕事さえ、朝鮮人であることを隠すためにやめました。
なぜ鐘根さんは、そこまでして隠しつづけたのでしょうか? その問いから見えてくるのは、今も根深くのこる差別の問題です。
広島と長崎で被爆した朝鮮半島出身者は、約7万人にのぼります。原爆は、日本とアメリカとの戦争を振り返ったとき、日本が受けた被害として真っ先に思い浮かぶものです。だからこそ考えたいのは、その被害が「日本人」だけのものではなかったこと。
さまざまな背景が重なるなかで、見えにくくなってしまうもの、聴こえにくくなってしまう声があることを、ぜひ記事をよんで考えてみてください。
あなたにおすすめの1冊
『被爆者』 (ポプラ社)
写真/著:会田法行 (10歳~)
広島、長崎で、ある日突然「被爆者」となった6人の生きる姿を、写真を通して伝える1冊。中には原爆投下当時、お母さんのお腹にいたために、原爆小頭症で生まれてきた女性もいます。何十年がたったからと置き去りにすることはできない、何万人のうちの1という数字にも置きかえられない、一人ひとりの歩みをたどってください。
沖縄戦ってなんだろう?
「沖縄」と聞いて最初に思いうかべるのは、白い砂浜にきらめく海、常夏のリゾートかもしれません。しかし78年前の沖縄は、砲弾が雨あられとふりそそぐ戦場でした。日本で唯一アメリカ軍が上陸して地上戦が行われ、兵士よりも多くの住民が犠牲になったのです。
なぜ、本来戦わない住民の犠牲が大きくなったのでしょうか? もちろん、アメリカ軍の攻撃がようしゃなく住民へむけられたこともあります。けれども、日本軍がたくさんの住民が避難している沖縄本島南部へと「撤退」、つまり逃げながら戦いを長引かせたことで多くの人が巻きこまれ、命を落としたという事実も忘れてはなりません。沖縄の人々は、アメリカ軍だけでなく、日本軍の兵士によっても命をおびやかされ、数々の「集団自決」が起こっていくことになります。なかには、とうてい「自分で決める」ことなどできない幼い子どももいました(そのため、「集団自決」ではなく「強制集団死」という言い方もします)。
なぜ多くの住民が巻き込まれるとわかっていながら、日本軍は「南部への撤退」を決めたのでしょうか。なぜ人々は自殺をしなければならなかったのでしょうか。沖縄戦について問いを重ねていくほどに、いかに戦争のもとで理不尽なことが起きてしまうかがわかります。
今も、激戦地だった南部の土には、おびただしい犠牲者の遺骨が残されています。沖縄戦について教えてくれた具志堅隆松さんは、40年以上、暗い壕やジャングルの中で、誰の目にも触れることのなかった遺骨を掘り出してきました。
しかし2020年、日本政府は、沖縄県辺野古という場所のきれいな海を埋め立てて、新しい米軍基地をつくるために、南部の土砂を利用するかもしれないという計画を発表しました。「遺骨の混じった土砂を新たな軍事基地を造るための埋め立てに使うということは、戦没者の命の冒涜(ぼうとく)だと思います」と、具志堅さんは語ります。
「沖縄戦」から78年がたった今も、沖縄の空には米軍基地から飛び立つ戦闘機の姿があります。沖縄の「戦後」は本当にきたのでしょうか。失われた命は、そのまま置き去りにされてはいないでしょうか。
あなたにおすすめの1冊
『てっぽうをもったキジムナー』 たじまゆきひこ
キジムナーは、沖縄に伝わる大木の精霊で、夜になると木から降りてきて、沖縄の人たちを守っているのだといいます。主人公のさっちゃんは病気で歩けない女の子。沖縄戦の激しい砲火にさらされ壕に逃げ込みますが、そこでは日本兵が住人たちに「“自決”できなければ非国民だ」と迫ります。誰にも守ってもらえないさっちゃんに手を差し伸べたのは、「キジムナー」でした。でも、その「キジムナー」の正体は…? これまでよんできたことを思い返しながら、ページをめくってみてください。
ここまで見てきた戦争の問題は、日本を中心としていました。ここで、少し視野を広げて海の向こうへと目を向けてみましょう。日本は戦後、新しい憲法をつくって「平和主義」をかかげ、「戦争をしない」ということを決めました。ところが世界では、その後もさまざまな地域で戦争・紛争が起こり続けています。「遠い国のことだから関係ない、とは言えないんじゃないか」と、ここまでよんできたみなさんは思うかもしれません。
まさにその通りです。日本と世界で起きている戦争にどんなつながりがあるのでしょうか。
イラクに「広島通り」という名前の通りがあるのはなぜ?
イラク北部のクルド自治区ハラブジャという街の中心には、「広島通り」という道があります。なぜ日本から8,000キロ離れたこの通りが、「広島」と名づけられたのでしょうか。
そのわけは、1988年3月16日の「ハラブジャの悲劇」にあります。イラン・イラク戦争のさなか、イラク政府軍はハラブジャに化学兵器を投下しました。毒ガスは人間から動物まであらゆる命をうばい、街の人口の1割となる、約5,000人が犠牲になりました。家族をとつぜん亡くした人の悲しみは今もつづき、後遺症に苦しむ人もいます。
また、立ち止まって考えなければいけないのは、この虐殺が「見過ごされてきた」ということです。この化学兵器のことは新聞でも報道され、アメリカやヨーロッパの国々も当然気づいていたはずでした。止めようと思えば止められたかもしれない。けれど、自分たちの国の利益を一番に考え、何もしませんでした。
原爆のことについて考えてきたみなさんには、広島と長崎、ハラブジャにどんな重なりが見えますか?
「ハラブジャから日本に祈っているように、日本からもハラブジャに祈ってほしい。“人権”とは、行動が伴わなければただの“言葉”で終わってしまう。こうして輪を広げ、友が増えれば、自然と敵も減っていくのではないだろうか」取材で自身と家族の被害について教えてくれたカカ・シェイフさんの言葉です。
イラク戦争と沖縄には、どんな共通点があるだろう?
1945年8月15日は、日本がアメリカに降伏してポツダム宣言を受け入れた日で、日本では「終戦記念日」とされています。しかし、それからずっと「日本は平和だった」と言えるでしょうか。イラク戦争と沖縄のことから、考えていきたいと思います。
2003年3月20日、アメリカは「サダム政権が大量破壊兵器を持っている」ことを”大義“としてイラクに攻め込みました。ところがイラク中のどこを探しても、そんなものは見つかりませんでした。アメリカ軍は撤退しましたが、国内の混乱は20年たった今も続いています。これまで20万人もの市民が命を落としたといわれています。300万人もの人が自分の家を追われ、荒野に並ぶテントでの避難生活を送ることになりました。
根拠のない侵攻のために、なぜ、ごく普通の日々を送っていたはずの人々が死ななければならなかったのでしょうか。この問いは日本で暮らす私たちにも向けられています。
日本もまた、イラク戦争で真っ先にアメリカの侵攻を支持し、自衛隊を派遣した国だからです。「間違っていた」ではとうてい済まされないほど、あまりにも多くの命が失われ、あたたかな生活がうばわれました。けれども、その後日本では、当時の判断が正しかったのか、間違っていたのかという検証すら、行われていません。
日本からイラク戦争へ向かったのは自衛隊だけではありません。沖縄の米軍基地からは何千人もの海兵隊員が、最前線へと送られました。その先の戦闘では、6千人の市民が命を奪われています。悲惨な沖縄戦が終わってなお、沖縄はアメリカの戦争に巻き込まれつづけてきました。そして米軍ヘリや戦闘機の事故など、繰り返される事故に住民の生活はおびやかされつづけています。
「戦後75年、日本は平和だった」と言えてしまうのは「都合が悪いこと」を沖縄に押しつけているからではないのでしょうか。目をつぶっている間に、沖縄で、イラクで、犠牲になってきたのは誰でしょうか。少なくともこれからの犠牲を減らすために、みなさんと一緒に考えていきたいことです。
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『なんみんってよばないで。』 ケイト・ルミナ― (小学校低学年~)
「このまちを でていかなけくては ならないの」。母が少年に優しく語りかけるところからはじまる、長い長い旅路。イラクでも、ウクライナでも、戦争が起こったとき、安全な暮らしを求め、慣れ親しんだ故郷を離れなければならない人たちは、「難民」と呼ばれます。でも、そうやってひとくくりにすることで、一人ひとりに思いがあり、人生があるということが、見えなくなってはいないでしょうか。「あなたならどうする?」と、1ページ1ページに投げかけがあります。ぜひ、じっくりよんで考えてみてください。
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