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2021.1.5

探しています、祖母の生きた証を

安田 菜津紀 Natsuki Yasuda

安田 菜津紀Natsuki Yasuda

佐藤 慧 Kei Sato

佐藤 慧Kei Sato

田中 えり Eri Tanaka

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安田 菜津紀 Natsuki Yasuda

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田中 えり Eri Tanaka

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田中 えり Eri Tanaka

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安田 菜津紀 Natsuki Yasuda

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安田 菜津紀 Natsuki Yasuda

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佐藤 慧 Kei Sato

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田中 えり Eri Tanaka

田中 えりEri Tanaka

2021.1.5

エッセイ #差別 #ルーツ #戦争・紛争 #朝鮮半島 #安田菜津紀

よく晴れた、けれども風の冷たい午後だった。道端の落ち葉が舞うカサカサという音が妙に心地よい。早足で家に戻りポストをあけると、無造作に投げ込まれたチラシの間に、細長い茶色い封筒が挟まっている。手に取ると、紙が数枚折りたたまれているであろう厚みがあった。送り主は出入国在留管理庁(入管)だった。その瞬間、確信した。「祖母はもう、この世にはいないのだ」、と。
 


 

『もう一つの「遺書」、外国人登録原票』にも書いたように、私が中学2年生の時に、父が亡くなった。その後、戸籍を見る機会があり、そこで初めて父が在日コリアンであることを知った。父は自分のルーツや、自分の父母のことを、一切語らないままこの世を去ってしまった。家族と断絶していた父が、どんな生い立ちで、どんな幼少期を過ごしてきたのか、知る手立ては殆ど残されていなかった。戸籍に残された「韓国籍」という文字以上のことを、もう死者に尋ねることはできない。父の家族がすでに亡くなっているのか、それともどこかで生きているかさえ、分からなかった。
 

父と幼い頃の私

わずかながら手がかりが残されていることを知ったのは、父が亡くなってから15年以上も経った、昨年のことだった。法務省には、亡くなった外国人の「登録原票」が保管されている。この「外国人登録制度」を知るためには、在日コリアンの歩みに触れる必要がある。

朝鮮半島出身者は、日本の植民地支配時代は「日本人」と扱われていたものの、戦後、一方的に国籍をはく奪されてしまう。故郷へと戻った人々もいれば、生活の基盤がすでに日本にあり、残ることを選んだ人々、さらには朝鮮半島が南北に引き裂かれ、同じ民族が武器を向け合う激しい戦争がはじまると、帰るに帰れなくなった人々もいた。外国人登録制度は、そんな在日コリアンたち「外国人」を、「治安管理」を掲げ「管理」するための制度だった。だからこそ、その制度を頼って家族の歩みを知ることに、素直に喜べない自分もいた。
 

父の外国人登録原票

父や祖父である金命坤(きむ・みょんごん 一部記載は金明根)の外国人登録原票は無事交付され、祖父がいつ朝鮮半島から日本に渡り、戦後どんな場所に暮らしてきたのか…生きた証が確かにそこに、刻み込まれていた。ところが、祖母はどの書類をめくっても、「金玉子」(キム・オッチャ)という名前しか分からない。ありったけの書類をかき集める中で、父の出生届に祖母の生年月日を見つけたときには、ようやく一筋の光をつかんだ思いだった。これで祖母の外国人登録原票の交付が叶うかもしれない。分かる限りの情報を、細かな字で目いっぱい書類に書き込み、私は入管からの返答を待った。それからの日々、午後になると原稿を書く手を休め、ポストに郵便が配達される音に耳をすました。

その一方で、複雑な思いが常に頭を過っていた。外国人登録原票は、死亡している人のものしか交付請求することができない。祖母が生きていれば、93歳のはずだ。もしも祖母が生きていたら、交付は認められず、書類で彼女の足跡をたどることはできない。登録原票が私の手元に届いた、ということは、祖母がもう生きていないことを意味していた。

封筒を開き、折りたたまれた書類をそっと開くと、深い陰影のモノクロ写真が目に留まった。思わず「はじめまして」と心の中で語りかける。書類越しとはいえ、祖母の顔を見たのは、これがはじめてだったのだから。
 

祖母の外国人登録原票

祖母は今の私よりも若く、32才でこの世を去っていた。1938年、11歳の時に、本籍のある釜山から山口県下関市に渡っていたようだ。記録されている13年間のうちに、京都や大阪、名古屋など、13カ所もの住所を転々とした後、最後の住所は神戸となっていた。実は神戸に住んだ形跡は、それ以前にもいくつか残されていた。そのうちの一つである雲井通には、戦後、取り締まりや移転が繰り返されていた「闇市」があったようだ。今では繁華街となっている区画もあり、当時の面影はもう残ってはいない。それでも、祖母がここで呼吸していたのだと考えただけで、雑踏の中で心の奥がじわりと温かくなる。
 

大規模取締前日の三宮駅近くの闇市(神戸新聞、1946年8月1日掲載)

神戸を最初に案内してくれたのは、長田にある「元祖平壌冷麺屋 本店」の四代目、張守基(ちゃん・すぎ)さんだった。大の読書家で、この日のために何冊もの本を読み、記事をたどり、地元のことをさらに深く調べて下さっていた。
 

右から2番目が張守基さん、その左隣が祖母の金栄善さん

「元祖平壌冷麺屋」は1939年に、張さんの曽祖父母が日本初の専門店として開いた店だ。店舗のある長田は、ケミカルシューズ製造に携わる人々をはじめ、朝鮮半島出身の労働者が集う地域だった。

「誰が作った冷麺なのか、食べればすぐ分かるんですよ。その人のくせが出る」と張さんの祖母、金栄善(きむ・よんそん)さんは朗らかに語る。麺は一食一食、必ず注文を受けてから打ちはじめ、熱湯を注いでこねる。この加減に個性が出るのだろう。水キムチのつゆと肉の出汁が合わさった半透明のスープは、外を歩きまわった後の疲れた体に染み渡るさわやかな風味だ。
 

手打ち麺はやわらかな食感で、スープとよく合う

栄善さんは1930年、山口県宇部市に生まれた。1927年生まれの私の祖母と、ほぼ同じ時代を生きてきている。父は炭鉱で石炭をほり、現場は徴用で朝鮮半島出身者が増えていった。「炭鉱では肉体労働でしょ。父親が体調を崩して休もうとすると、区役所に呼び出されて、防火用水に頭を突っ込まれたりしましたね。おばさんたちがチョゴリを着て歩いていると、憲兵にハサミで切られたこともありましたよ。“着たらあかん!”って。そういう時代でしたね」。

戦時中、宇部も激しい空襲に見舞われた。街が燃えさかる中をかいくぐって海へと逃げ、岸壁にはりつくようにして爆撃機が去るのを待った。食べる物にも事欠き、トウモロコシを乾燥させた粉を水でゆがいてしのいだ。

「終戦」を迎えた直後、ヤミ米を売りに行く人に付いて一度、焼け野原となった神戸を訪れたことがある。「汽車は復員する人でいっぱいで、山口からずっとデッキに立ってたんですよ。あの時は機関車やから朝、神戸についたら煙で真っ黒になってましたね」。街は少しずつ復興へと向かう一方、半島では1950年に朝鮮戦争が起きる。父親の妹たちとは音信が途絶え、今もその消息は分かっていない。
 

1945年、阪急三宮駅付近(提供:神戸新聞)

栄善さんはこの1950年、結婚を機に神戸で暮らし始めた。夫の両親がはじめた冷麺屋は、戦争でしばらく営業を休んでいたが、栄善さんが加わったこともあり再開、多くの労働者たちのより所となっていった。栄善さんの両親も義理の父母も平壌の出身だ。「平壌ではお祝い事があると冷麺屋に行くそうですよ。お誕生日には大同江(てどんがん 朝鮮半島の北西部を流れる河)のように長い麺を、長生きするためにって子どもに食べさせる」。その麺は今でこそ機械で押し出して作っているものの、当時は体重をいっぱいにかけ、人力で押し出していた。

店に、子育てにと多忙な日々を送り、子どもたちが大きくなった頃、栄善さんは地域の「かな覚え」教室で朝鮮語の読み書きを学んだ。「とにかく生まれた時から日本の教育ばっかりだったでしょ。校庭で皆で軍歌を歌って、その学校も途中からは戦争で勉強どころではなくなっていきましたからね。でも朝鮮語、読まれんかったら苦しいでしょ」。今度は英語も勉強したいんですよ、と栄善さんは和やかに笑った。

1995年1月17日の早朝、街を突き上げるような激しい揺れが一帯を襲った。「とにかく寝てたベッドごとぐりぐりとまわる。ああもう死ぬって思いましたね」。阪神淡路大震災で、暮らしていた平屋の屋根瓦がほぼ全て落ち、床も陥没。店も建物ごと傾いてしまった。仮設店舗を経て、再建できたのは9年後だった。
 

ひ孫さんと談笑する栄善さん

栄善さんは今でも毎日、店に立ち続けている。「姑さんがいっつもね、人間は朝起きて、目的がなかったらだめって言ってましたね。私も朝起きて、ここに来るのが楽しみなんですよ。店におるときが一番楽しい」。この店は試練を乗り越えながら、長年築き上げてきた大切な財産だと、栄善さんは目を細めながら語る。

「この冷麺屋はずっと残していきたいですね。人間、何があっても食べなあかんしね。今では簡単に家で食べられる乾燥麺があって、こうやって手打ちでやってるところは少ないですよ。お店ができて100年の年になったら“100周年”って大きなのぼりを出して、冷麺を振る舞いたいと思ってますよ」。
 

高台から見下ろした神戸の街

私の家族のように足取りが途切れてしまっている家族がいる一方、戦争があっても、震災があっても、こうして営みを受け継いでいるご家族がいることに、この「旅」の背中を押してもらったように思う。

もちろん、栄善さんと私の祖母の出身も歩みも違う。それでも、こうして声を聴かせてもらうことで、時代と共に祖母の体験が少しずつ「見えてくる」気がするのだ。書類の上の平面だった情報に、人々の「魂」が吹き込まれ、徐々に立体に見えてくるような感覚だ。今では都市開発も進み、戦後の風景はほとんど残されていない。けれどもどんなに風景が「上書き」されても、土地の記憶はこうして人々の中に刻まれているのだ。

          

 
ここで、読んで下さった方々に、お願いがあります。祖母の生きた証を探すために、皆さんの力を貸して頂きたいのです。外国人登録原票は、日本にいつ来たのかは記されているものの、日本に来てから、戦後、この登録制度ができるまでの間がぽっかりと抜け落ちてしまっています。11歳だった祖母は、誰と日本にやってきたのか。その後、どんな暮らしをし、戦時下をどうくぐり抜けたのか。記録されている住所に暮らしている間も、誰とつながり、どんな営みを経てきたのか。どこで父や父祖たちと、別れていったのか。まだ、そのほとんどが霧の向こうにあり、ぼんやりとさえ見えてきません。祖母が亡くなってからの60年という長い年月も、歩みをたどることを阻んでいます。
 

祖母がかつて暮らしていた小野柄通の一角

祖母の書類に残る歩みです。

1927年9月生まれ
本籍(当時):慶尚南道釜山市谷町周辺(現在の釜山広域市西区峨嵋洞)/釜山市谷洞6丁目
※韓国領事館に問い合わせたところ、当時も「谷洞」という住所は存在せず、現在「洞」という漢字のつく住所は金井区釜谷洞、北区金谷洞、南区大淵洞堂谷。この3つの住所の誤記の可能性があります。

1938年10月28日 下関経由で日本に渡る
1945年4月20日 祖父・金命坤(金明根)と結婚
1947年:京都市伏見区深草下川原
1949年:大阪市西成区長橋通
    京都市伏見区下河原
大阪府布施市森河内
1952年:大阪市生野区勝山通
1953年:神戸市葺合区雲井通
1954年:神戸市灘区
1955年:神戸市葺合区小野柄通
京都市下京区(南区)東九条下河原町
京都市右京区太秦西
1956年:名古屋市南区観音町
1957年:京都市東山区東大路
韓国に国籍変更
1958年:神戸市生田区山本通
1960年:死亡

 

祖母の外国人登録原票

祖母の歩みを知ることは、私の中にある空白を埋め、パズルのピースを少しずつ取り戻していくような作業です。「金玉子」は決して珍しくない名前ですが、この記事を読み、祖母について少しでも思い当たることがある方は、連絡を頂けないでしょうか。
https://d4p.world/contact_other/

時間と制度の壁も、人のつながりの力で超えていけると信じています。

実はこの「旅」の鍵となる新たな手がかりも見つかりました。韓国領事館で手続きをしたところ、祖父、金命坤(きむ・みょんごん)の除籍謄本が残っていたのです。祖父はどうやら、祖父にとっての甥の籍に入ったままだったようです。そして、初めて知る「親戚」が13人、一緒に記載をされていました。最も若い方は、まだ高校生ほどの年齢です。
 

韓国領事館から交付された祖父の除籍謄本

これからそれぞれの住所に、手紙を送ってみようと思っています。突然、日本から知らない親族の手紙が届けば、驚いてしまうでしょう。慎重に、でも少しワクワクしながら、文面を考えています。

断絶し、ぷっつりと途切れていた家族の縁を、どこまでたぐりよせることができるのか。この続きは、また書きたいと思います。
 

祖母がしばらく暮らしていた、京都市南区東九条の一角

(写真・文 安田菜津紀 / 2021年1月)

 


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2021.1.5

エッセイ #差別 #ルーツ #戦争・紛争 #朝鮮半島 #安田菜津紀