屈辱の道を通って―ガザ地区からトルコの兄の結婚式へ(ガザ地区現地レポート/前編)
本記事はパレスチナ、ガザ地区在住の取材パートナー、Amal(アマル)さんによる現場からのレポートです。
Amalさん
パレスチナガザ地区・D4P現地取材パートナー
最後に親族一同が集まれたのは、8年以上昔のことでした。今回のレポートでは、やっとのことで親族の集えた、兄の結婚式の話をしたいと思います。
私の兄はジャーナリストでした。2014年、ガザ地区が戦火に晒される中、兄はその被害者たちの取材で病院に滞在していました。そこにイスラエルからの爆撃があり、兄は大怪我を負ってしまったのです。彼は手術のためにトルコへと搬送され、そのまま治療のためにトルコへと残りました。兄の妻はパレスチナのヨルダン川西岸地区に住んでいます。ガザ地区と西岸地区は、イスラエルにより隔てられているため、自由に会うこともできず、結婚式も挙げていませんでした。ふたり揃って式を行うには、かろうじてビザを発給してもらえる可能性のあるトルコでの挙式というのが、ほぼ唯一の選択肢でした。日取りは2021年8月7日と決まり、それは私たち親族一同が数年ぶりに顔を合わせる、絶好の機会でもありました。
ガザ地区には、外に出るための空港や港はありません。人の出入りできるゲートが二ヵ所あるのですが、そのどちらを通過するにも、隣国の許可が必要です。ひとつはイスラエルへと抜けるゲートで、「エレツ検問所」と呼ばれています。西岸地区へ行くにはこの道を通らなければなりません。けれど、実際に許可が降りるのはわずか1%程度――つまり、事実上“不可能”なことなのです。中には、西岸地区での治療を望む怪我人や病人もいますが、そうした治療のための特別な許可でさえ、手にするまでには長い時間を要し、ほとんどの人々は、待っている間に命を落としてしまいます。
もうひとつのゲートは、エジプトとの国境にあります。ガザ地区に住む私たちがトルコへ行くには、こちらのゲートを通らなければなりません。「ラファ検問所」と呼ばれるこちらのゲートは、いつも開いているわけではありません。けれど幸いなことに、2020年末以降、継続的に開放され続けていたのです。もちろん、通行のためには大金を支払わなければなりませんが、私たちはここからエジプトに出て、トルコへ向かうという旅程を考えていました。
Contents 目次
世界で最も外国旅行の難しい地域
私たちのパスポートは国際的信用度も非常に低く、エジプトビザ、そしてトルコビザの取得も簡単なことではありません。2021年3月、まず私たちは、パスポートの更新、そしてビザ取得のために動き始めました。そのためには、パスポートをヨルダン川西岸地区にある公官庁に送らなければなりません。しかし私たちがパスポートを送り結果を待っている間に、あの「ガザ空爆」が起こったのです。
参考記事:
5月10日からの11日間、私たちは“生き残ること”に必死で、旅行は諦めざるを得ないと思っていました。トルコにいる私の兄も、私たち家族やガザの人々のことをとても心配していました。あまりにも多くの命が失われたこともあり、兄は「今はお祝い事をできる時期ではない」と、結婚式をキャンセルしたのです。
それから3週間後、私たちのパスポートが準備できたという連絡がありました。私たちは、戦争により疲弊した心身を癒すためにも、兄の結婚式で親族が集うことを、再び考え直してもいいのではないかと思い始めました。兄も悩みましたが、再び同日、8月7日の結婚式を予約し直したのです。けれど、エレツ検問所が閉まっているため、西岸地区からの郵便も全てストップしており、パスポートは中々手元に届きませんでした。私たちはパスポートの到着を待つ間に、次の作業を始めることにしました。
ガザ地区は、おそらく世界で最も外国へ旅行に行くのが難しい地域のひとつでしょう。まずは当然、訪問国のビザを取得しなければなりません(もしその国が発給してくれるとしたら、ですが)。そしてもうひとつ、検問を通るためのリストに、私たちの名前を登録しなければならないのです。エジプトへと抜けるバスは、1日に4台しか認められていません。自分の希望した通りの日時にバスに乗ろうとしたら、役人に“賄賂”を支払わなければならないのです。その金額は、最低でもひとり350USD、ときには1,500USD求められることもあります。私たち家族は全員で15名だったので、簡単に支払える額ではありません。
さらに私たちの場合、エジプトが最終目的地ではありません。そこからトルコへ行くためのビザもまた、決して安いものではありませんでした(こうした高額な費用は、私たちガザの人々が域外へ出ないための障害として設けられているのではないかと勘ぐりたくもなります)。私たちは、なんとか出費を押さえて旅行できないかと色々な手段を試みましたが、それはまったく不可能なことだとわかりました。
いくつものゲートと賄賂
そうこうしている間に時は流れていきましたが、トルコで親族が集えるという希望は持ち続けていました。ある日、7月中旬に出発するバスに乗れるかもしれないと、役人から連絡がありました。けれど、未だイスラエル側のゲートは閉まっていたため、私たちのパスポートは届いていません。毎日、「今日こそはゲートが開くらしい」という噂に期待しては、落胆する日々が続きました。
そんな中ついに、7月12日、出発の2日前にパスポートが届いたのです。私たちはとても幸運だったと思います! 私は夫と赤ん坊、そして弟妹たちと荷物をまとめ、出発の日を心待ちにしていました。
私の母は、他の親族とともに、ひとつ先のバスでエジプトへと向かっていました。彼女らは全員新型コロナウイルスのワクチンを接種していましたが、PCRテストも必要です。母たちは朝8時半にガザ地区側のゲートをくぐったのですが、次のゲートへ進めたのは夕方6時半でした。エジプト側に抜ける検問所はすでに閉まっていたため、母たちは、ガザ地区とエジプトとの間の路上で夜を明かすしかありませんでした。年老いた老婆や赤ん坊にとって、それはとても厳しい夜でした。
翌日早朝、私たちを乗せたバスもゲートへと向かいました。全ての検問を抜けるまでに、ガザ地区側にふたつ、エジプト側にひとつのゲートがあり、それぞれに手続きが必要です。無事にPCRテストも終え、2時間ほどでガザ地区側のゲートを通過することができました。
ガザ地区側で手続きを行っている間は、私たちはバスの中で待機することを許されていましたが、エジプト側では、なぜかバスに戻ることは許されず、私たちは真夏の炎天下の中、2時間も待たされました。そのためバスに戻ったときには、みんなの持っていた水筒やペットボトルは空になっていました。バスの中には、誰かの連れてきた猫もいて、暑さにへばっているようでした。私は赤ん坊用に持っていた僅かな水を少し猫に差し出しましたが、動く元気もなくうなだれていました。
長い時間待ち続け、やっとのことでバスはエジプト側へと進んでいきました。役人は何度も私たちの数を数え、パスポートを集めます。そのたびに、「PCRの陰性証明のために必要だ」などと言っては、賄賂を要求するのです。私たちは停車中でもバスを降りることを許されず、また、電話をかけることも禁じられていました。やっとバスを降り、入国手続きのためのホールに入ると、今度は役人たちが無造作にバッグを調べ始めます。そして、たいしたことは何もしていないのに、「検査料」を要求してくるのです!
私たちはみな疲れ切っていました。待合室には、はるか前にゲートを通過した人々も待たされており、また何か書類の手続きのために支払いが必要なようでした。ホールには商店があり、憔悴しきった人々は、そこで水や食糧を買わざるを得ませんでしたが、それはとても法外な金額のものばかりでした。けれど、他に選択肢はありません。
自尊心をえぐられるような時間
それから私たちは、自尊心をえぐられるような時間を過ごすことになります。待合室となっているホールは酷い有様で、職員たちは、そこで待機している人間なら誰彼構わず怒鳴り散らしていました。お年寄りや、小さな子どもであってもです。人々はひとりずつ尋問のようなインタビューに呼ばれました。私の弟に対して、職員はこのように訪ねました。「いったいどこに行くんだ?」「なにが目的?」「学校では何を学んだ?」「そんな理由じゃ入国は認められないな」――。弟は必死にすがりつき、「兄の結婚式で、親族一同が集まるんです!」と叫びました。職員は、その理由に多少納得をしたようでした。
次に私の夫が呼ばれ、同じような質問を受けました。彼は、「私は妻と子どもの同伴者として来ています。彼女たちだけでは道中不安ですから……。どうかトルコでの結婚式まで一緒に行かせてください」と説明しました。職員がその説明をどう受け取ったかはわかりませんが、私たちはパスポートを奪われたまま、そのまま待機を命じられました。するとしばらくして警察がやってきて、夫にこう怒鳴りました。「足を組んで座るとは何事だ!私たちはお前たちとは違う、位の高い人間なんだぞ!」。理不尽極まりない行為でしたが、夫は黙って耐え忍びました。もしここで口答えでもしようものなら、彼らは夫をガザに強制送還してしまうでしょうから……。
それから4、5時間が経過しても、まだ私たちはインタビューの結果を知らされていませんでした。このまま窓口の閉まる夕方6時になってしまったら、私たちはホールを追い出され、国境と国境の狭間にある路上で一夜を過ごさなければなりません。すると、6時まで残り30分を切った頃に、やっと人々の名前が呼ばれ始めたのです。呼ばれた人々はパスポートを手にホールを去っていきます。妹、そして私の赤ん坊の名前が呼ばれ、ついに私の名前も呼ばれました! そして、夫の名前も――夫はガザに強制送還されずに済んだのです!
けれど、弟の名前がいつまで経っても呼ばれません。彼の結果はどうなっているのかと、私は職員をつかまえて尋ねました。職員は、「呼ばれなかった人々は君たちと一緒にここを去るわけには行かない。彼らは我々の用意したシャトルバスで、結果が出るまで別なところに運ばれ待機することになる」と言いました。指差す先にあるシャトルバスは、まるで犯罪者を移送する車のようでした。「ガザの連中がここで暴動でも起こしたらたまったもんじゃないからな」。移送先は監獄のようなところだと言います。「弟は初めてガザ地区を出たんです!彼ひとりを置いていくわけには行きません」と私が言うと、「そこまでいうなら、弟をガザに強制送還したって構わないんだぞ」と脅してきました。――私は黙り込むしかありませんでした。
弟の名前が呼ばれないまま窓口の閉まる時間となり、私たちは弟を残してホールを立ち去るしかありませんでした。初めての外国で、たったひとりで取り残される不安に弟は泣き出しました。私たちに着いてこようとする弟に水と食糧を持たせると、ギュッと強く抱きしめました。
私たちもぐずぐずしているわけには行きません。ゲートが閉まる前に外に出て、今晩の宿を探さなければいけないのです。夕方とはいえ、とても陽射しの強い一日だったため、持っていた水のペットボトルが火傷しそうなほど熱くなっていました。赤ん坊も泣き止みません。きっとひとり残された弟のことを心配しているのでしょう……。
検問所を出たところに停まっていたタクシーに乗り込むと、エジプトの首都であるカイロへと向かうよう頼みました。このタクシーを逃せば、私たちは路上で寝るしかありません。そうした状況を運転手は熟知していたのでしょう。街まで200USDという法外な値段をふっかけられましたが、他に街へ行く手段のない私たちは、渋々その金額を払いました。
検問を通る度に私たちの心臓は早鐘を打ちましたが、何事もなく、いくつもの検問を通過することができました。通りは薄暗くなってきましたが、それでも気温は高いままです。私たちはとても疲れていましたが、トルコへの旅はまだ始まったばかり……。無事エジプトに入国できたことに安心しましたが、ひとりゲートに残された弟のことを思うと胸が苦しくなりました。カイロのホテルに到着したのは、翌午前3時のことでした。 (→後編へ続く)
(2021.12.3 / 文 Amal 翻訳・写真〔提供の記載のあるもの以外〕 佐藤慧)
あわせて読みたい
■ 【取材レポート】「私たちはここにいる!」―PALESTINIAN LIVES MATTER―(パレスチナ) [2020.7.16/安田菜津紀・佐藤慧]
■ 【現地の声】パレスチナに生まれて ―ふたつの支配という日常― [2019.6.20/サマ・佐藤慧(翻訳)]
■ 【取材レポート】「壁」の中の歌声(後編)-パレスチナ- [2020.2.20/佐藤慧]
2021年冬特集
「人権の現在地」NPO法人Dialogue for Peopleがこの冬お届けする特集「人権の現在地」。常に時代と共に変わり続ける「人権」の今を追った情報を発信するとともに、広くご支援、ご寄付を募っております。
特集期間中は、テーマに関連した取材レポートやインタビュー記事、YouTubeでの解説動画やラジオ型のトーク番組など、さまざまな形で発信を続けて参ります。今だからこそ、改めてお伝えしたい過去の記事も掲載しておりますので、ぜひご覧ください。
◤2021冬のハッシュタグキャンペーン「#Dialoguefor2022」 — 2022年、あなたが “対話” していきたいことは?◢
さまざまな出来事があった2021年、一年を振り返って、そして2022年を見据えて、これからも対話していきたいと思うことを「#Dialoguefor2022」をつけて、SNSでシェアしてください。みなさんとともに今年起きた出来事を一緒に振り返りながら、2022年にむけての「対話」を広げていけたらと考えています。ご参加を心よりお待ちしています!詳細はこちらから!