※本記事では実態をお伝えするために、差別文言を記載している箇所がありますのでご注意ください。
「民主主義とは、その政治家や政党を支持しない人、投票しなかった人、そもそも投票する権利さえない人たちの声とも大切に向き合うことだと思ってきました。(安倍氏の)国葬は、むしろそれとは真逆の選択ではないでしょうか」
7月24日(日)、TBSテレビ「サンデーモーニング」で、私はこうした趣旨の発言をしました。今も考えは変わっていません。公の場での発言には、当然ですが必ず責任が伴い、社会の中で批評や論評の対象になるものです。私のこうした発言にも様々な意見が寄せられましたが、中には「論評」とは言い難いものもありました。
東京・中野区議を務める吉田康一郎氏は自身のTwitterで、上記の私の発言をもって「(安田は)降板させるべき」と書き込んだ後、続く投稿では、私が過去に書いた記事を引用したうえで、こうコメントしています。
「TBSサンデーモーニングのコメンテーター、安田菜津紀氏。父親は在日コリアン2世で、元韓国籍、後に日本国籍を取得」
吉田氏がこの言葉と共に引用した記事『投票へ行く、という大人の背中』は、私の父について書いたものでした。
父は、私が中学2年生のときに亡くなりました。その後、戸籍を見て、父が在日コリアンの2世であったことを初めて知ることになります。
さかのぼれば私の記憶には、両親が幼い私を連れて投票所へと赴いていた姿があります。「普段ずぼらに見える父が、なぜ真面目に投票に?」と、不思議に思ったこともありました。
父は私が幼い時に日本国籍を取得していますが、それから毎回嬉しそうに投票に行っていたことを後に母から聞いたとき、かつての記憶が、全く違った風景に見えました。複雑な家庭に育ち、苦労を重ねたらしい父にとって、「選べる」ということがどれほどの喜びだったのだろう、と。
以前の父がそうであったように、日本国籍ではないことで、直接投票によって声を届けることが叶わない人たちにとっても生きやすい社会になるように――そんな願いも込めて、私はその記事を綴りました。
吉田氏はこの投稿にどんな反応が押し寄せるのか、全く予想をしていなかったのでしょうか。
この投稿のリプライには「帰化取り消しをすべき」「今度は日本国籍を抜いて、さっさとお帰り下さい」「反日のため帰化したキャスト」といった差別書き込みが量産されていきました。吉田氏は「国政について論評している人物の背景や経歴、経験について記述しているだけ」としていますが、公人として、「ここに差別の言葉を投げつけていいターゲットがいる」と、自身の投稿が旗振り役になることを、事前に全く考えられなかったのでしょうか。
吉田氏の投稿に対しても、そこに連なるリプライについても、同じ区に生きる人々の中に、恐怖を覚える人々が少なからずいるはずです。「扇動」の害悪について、公人こそ自覚を持つ必要があるでしょう。
ヘイトの問題を考える上で重要な言葉の中に、「集団的ナルシシズム」があります。
「日本」という大きな主語と自分自身を一体化させてしまい、「日本政府」や「日本人」を批判されると、「自分」を批判されたかのように感じがちな状態を、心理学の世界ではそう呼ぶのだそうです。それが有害な形で表れてしまうことを、荻上チキ氏がヘイトスピーチの解説の中で指摘しています。
私や父の出自についてあえて明示している吉田氏の投稿には、「やっぱりな…」等のコメントも並んでいますが、自分と意見の違う人間を「外国人」「在日」というレッテルで見れば、「自分は間違っていない」と安心できるのかもしれません。けれどもそれが、別の誰かの安全を脅かして成り立っているものだとしたら、あまりに脆い「安心」でしょう。
実は当初、吉田氏の投稿に言及することを躊躇しました。「出自を明かすと、攻撃の対象になる」と知らしめることにもなってしまうのでは、と懸念したからです。私自身はこれまでも、父や家族のことを言葉にしてきましたが、出自やルーツを誰しもが語れるわけではありません。語れない社会状況があるからです。
『ヘイトクライムに抗う ―憎悪のピラミッドを積み重ねないために―』にも書いているように、差別の問題に必要なのは、マジョリティの側から声をあげ、マジョリティの態度を変えていくことです。吉田氏の投稿に対して、素早く声をあげたのは、ジャーナリストの安田浩一さんでした。
「安田菜津紀さんとご家族の出自をあえて明示することによって何を訴えたいのか。あるいは何を期待したのか。当然ながらリプ欄にあふれるのは結果的に吉田さんに誘導、扇動された者たちによる差別と偏見に満ちた文言ばかりです。ヘイトを引き寄せるツイートに憤りを感じています」
また、『緊急に求められるヘイトクライム対策――戦争によって生まれた街から分断を超える知恵を』でも指摘しているように、差別扇動に対しては、公的機関や公人からの発言が重要な鍵となります。公的立場の人間が沈黙することは「無害」ではなく、「ここまでやっても許される」と市井の差別にお墨付きを与えることになるからです。
まして議員のような立場のある人間の発言には、公人が歯止めをかけることが欠かせないはずです。吉田氏の書き込みに対しては、一部の中野区議からも、過去の同氏の差別発言を指摘したり、「差別や偏見を煽ることがあなたの仕事ですか」という声があがったことは、とても大切なことでした。
こうして「マジョリティの立場」の人や、公人の発信が続いたことに背中を押され、改めて自分の言葉で伝えたいと思い、このエッセイを綴りました。
一方、現場の「自助努力」だけでは限界があります。差別を蔓延させない社会を持続的に作るのであれば、条例や国としての法律をさらに整備していく必要があるでしょう。
現在私は、Twitter上で受けた差別書き込みに対する訴訟を複数行っています。
《安田菜津紀に対するインターネット上での誹謗中傷、及び在日コリアンへのヘイトスピーチに対する訴訟について》
https://d4p.world/news/14148/
裁判は非常に時間と労力を要し、エネルギーをえぐり取っていくものです。まず、書き込んだ匿名の相手を特定するために、Twitterなどのプラットフォーム側に裁判を起こすことになります。けれども情報を開示したくないプラットフォーム側は、まるで加害者を擁護するように、あるいは加害者本人かのように、「これは差別ではない」「問題のない書き込みだ」と主張してきます。これだけでも、訴え出る側にとっては相当の負担となります。
さらに、裁判が進んでいったとしても、判決の中で差別が「差別」として認められるとは限りません。包括的に差別を禁止する法律が、いまだ日本にはないからです。
また、膨らむ裁判費用を考えれば、泣き寝入りせざるをえない被害者の方が圧倒的に多いでしょう。安心して駆け込める、政府から独立した人権救済機関が設置されていないからです。
最初にお伝えした「国葬」と「民主主義」に話を戻すと、安倍氏の国葬を、「他の民主主義国家も一国のリーダーの国葬を行っている」という理由で是とする声があります。法的根拠も乏しく、吉田茂氏以来行われてこなかったものを、「他国もやっているから」と理由づけし、国会で議論もせず閣議決定で推し進めることが、「民主主義国家」のあるべき姿でしょうか。仮に、「他国もやっているから」という理由が正当化されるとすれば、他にもっと、「真似」なければならないことがあるはずです。難民認定の仕組み、ジェンダーギャップの埋め方、そしてヘイトスピーチ対策――。
「差別を黙認する社会」は、「暴力を容認する社会」と一本の線でつながっています。そう考えれば、ヘイト対策が「一部の人のためのもの」ではなく、この社会に生きる誰しもに関わることとして、見えてくるのではないでしょうか。
(2022.7.27/ 文 安田菜津紀)
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