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植民地支配から引き継がれた加害―朝鮮と水俣(加藤圭木さんインタビュー)

海に太陽が沈もうとしている。
不知火海を臨んで。(安田菜津紀撮影)

水俣病の公式確認から70年。原因企業であるチッソ* は、日本の植民地支配下にあった朝鮮半島にも進出し、様々な問題を引き起こしていました。

多くの人々の暮らしを奪った大規模なダム建設や、工場近隣地域での公害など、いまだ十分に検証されていない植民地主義による「加害の歴史」について、一橋大学大学院社会学研究科教授の加藤圭木さんにうかがいました。

* 本記事では、戦前の日本窒素財閥を含め、チッソという呼称で統一しています。


加藤圭木さん(本人提供)

差別が水俣病を引き起こした

――加藤さんご自身が水俣と朝鮮のつながりに注目したきっかけは何だったのでしょうか。

チッソが朝鮮で収奪的な経営をしていたことは、研究者の間ではよく知られている事実なのですが、朝鮮史を研究してきた私自身、正直なところ水俣については、いずれ考えてみたいという思いにとどまっていました。

深く考えなければならないと思うようになったのは、2011年に研究仲間たちと水俣を訪問したことがきっかけです。水俣病について伝える活動をされている相思社の展示館で聞いたお話に衝撃を受けました。

「多くの人は『水俣病になったから差別をされた』と思っているが、実際は逆だ。差別があるから水俣病事件が起こった」というのです。チッソは水俣の漁民たちを犠牲にしてもいいと考えていたからこそ、メチル水銀を含む排水を流したのだと。

その話を聞いた日は2011年3月10日、東日本大震災の前日でした。翌日震災が起こり、原発事故つまり核災害が引き起こされる中で、地域住民を犠牲にするあり方など、水俣で聞いた話が形を変えて目の前で繰り広げられているように感じました。

朝鮮での植民地支配と水俣病問題はそれぞれ固有の問題ですが、いずれも重大な人権侵害であり、きちんと反省し再発防止をしていかないと、形を変えてまた繰り返されるのではないか。そう感じたことから、チッソが朝鮮で何をやったのか研究しようと思ったのです。

「産米増殖計画」とチッソの朝鮮進出

――チッソはどのような事業から始まって、水俣へと進出した企業なのでしょうか。

チッソの創業者である野口遵(のぐち したがう)は20世紀初頭に曾木電気という会社を鹿児島で設立し、発電事業を始めました。今でも発電所の跡が残っていますが、電力を金鉱山に供給する事業だったようです。

そこで余った電力を活用するため、1908年に水俣にカーバイド(炭化カルシウム)の生産工場を建設します。水俣は元々、塩田による塩の生産が盛んな地域でしたが、塩が国の専売制になったことから経済的な利益が失われていく状況にありました。

その中でチッソは塩田の跡地に工場を建設し拡大していきました。よく「企業城下町」と言われるように、チッソが殿様として地域に君臨し、化学肥料などの製造も始まって成長を続けていったのが初期のチッソでした。

正装した男性2人の白黒写真
野口遵社長(左)と市川誠次副社長(右)。(国立国会図書館図書館デジタルコレクション 『日本窒素事業概要』より)

――植民地朝鮮へはいつ頃、どのように進出していったのでしょうか。

チッソの朝鮮進出は1925年から開始し、朝鮮に進出した日本の資本の中でも最大規模だったと言われています。

当初は朝鮮の北東部で大規模な電源開発を行い、莫大な安い電力を使って生産する化学肥料事業が柱でした。その後事業は拡大していきますが、当初は先に水俣で始めていた化学肥料の製造を一気に拡大する狙いがありました。1927年には、朝鮮窒素肥料株式会社が設立されています。

当時、化学肥料が重要だった背景として、1920年代に朝鮮で行われていた「産米増殖計画」という大事業があります。日本人が食べる米を供給するため、朝鮮で米を増産させる計画です。

戦前の日本は米の自給率が低く、産業革命を支えるために朝鮮を安価な米の供給基地にしたいという意図は、日本が朝鮮を侵略していった経済的な理由の一つでした。

朝鮮では米の生産量が増えましたが、増産した分以上に日本に渡り、朝鮮人は自分たちがつくった米をなかなか食べられない状況になりました。こうした状況は「飢餓輸出」とも言われます。

米の増産をする上で必要となったのが化学肥料です。日本人が好む新しい品種には化学肥料が必要だったので、朝鮮の農民たちは化学肥料を買わざるを得ないことになりました。

チッソから見れば、化学肥料の巨大な販売市場があらかじめ確保されていたということです。そもそも朝鮮人の企業活動は抑えられ、朝鮮人の資本がほとんど成長できない状況で、こうした莫大な利益を上げられる前提条件が揃っているところへ進出していったわけです。

煙が立ちのぼる煙突と、工場の建物の白黒写真
朝鮮窒素火薬本社事務所及硝酸工場。(国立国会図書館図書館デジタルコレクション 『日本窒素事業概要』より)

植民地朝鮮における搾取の構造

――搾取の構造があり、莫大な利益が上げられる状況だったからこそ、チッソは朝鮮に進出したのですね。

化学肥料の市場があったことの他にも、チッソ側から見た「メリット」となる様々な搾取の構造が植民地朝鮮にはありました。

2つ目として、朝鮮総督府という朝鮮を支配する統治機構のバックアップがあります。特にチッソは朝鮮総督府の上層部と繋がりがあり、全面的な支援を受けることができました。

3つ目としては、日本側から見て「未開拓」な、電源開発に適した地帯があったことです。日本国内では既に他の企業が電源開発を独占しており、新興財閥のチッソが開発できる場所はもうありませんでした。

4つ目として、植民地における強権的な支配体制があります。水力発電所や工場建設にあたっては、住民の反対があったり、補償に対応することが必要になりますが、植民地支配による暴力的・強圧的な弾圧の下で利益を上げることが可能でした。

そして5つ目が、植民地に対する差別です。差別には制度的・法的なものと、意識によるものがあります。日本国内ではできないようなことでも植民地であればしても構わないという発想があり、それを実現する制度や法がありました。

たとえば発電所建設のために巨大なダムを作るとします。当時も日本国内では、住民に配慮しなければいけないという意識がそれなりにあったので、あまり大きなダムを作ることはできませんでした。

ところが植民地朝鮮では、住民の生活や人権を無視して、日本国内ではとても作れないような大規模なダムを建設してしまう。そこに住んでいる人たちの権利や存在を考慮しないということが朝鮮ではできてしまうから、こうしたことが可能になるのです。

ダムの発電効率を高めるために川の流れを変えてしまう「流域変更方式」という荒技まで行われました。これは下流の環境自体を変えてしまうもので、非常に大きな影響があります。技術者目線で見た「理想」を好き勝手に設計するような形で、人間の存在や生活を考慮せずに行う。まさに植民地支配とはそういうことだと思いますが、経営的にはメリットが大きいわけです。

また、労働者の労働条件、労働環境も非常に過酷でした。この時期、日本国内でも過酷な労働環境で働かされた人はたくさんいたと思いますが、植民地ではそれ以上に過酷な長時間労働や危険な労働を、差別的な低賃金で朝鮮人にさせていました。

民族差別によって日本人は比較的安全なところをやり、朝鮮人には危ないところをやらせる。経営側からすると、労働者を安く使って、配慮をしなくてよい分コストカットもできるというメリットがあります。差別によって企業の利益を最大化し、資本が悪い意味で「本当に自由に」動ける場所として植民地があったのです。

植民地統治と企業

――朝鮮総督府が植民地支配をする上で、企業の進出を利用した側面もあったのでしょうか。

「産米増殖計画」に化学肥料の供給が必要となるなど、朝鮮における資源開発は日本の侵略政策にとって重要でした。

1930年代に満州侵略が本格化すると、朝鮮は満州侵略の拠点に位置づけられていきます。侵略を支えるため、国策として朝鮮の軍事工業化が推進され、その中でチッソが重要な役割を果たすことになります。

国家権力とチッソなどの財閥が相互に協力し合いながら朝鮮支配を続け、さらに満州侵略までも進めていきました。

――朝鮮のチッソの工場には、水俣出身の人々が多く渡ったとされています。どのような背景があったのでしょうか。

植民地朝鮮での経営にあたって、チッソは水俣の人々を多く朝鮮に連れて行っています。技術者や経営上重要な役割を果たす人のほか、序列が明確な「企業城下町」の水俣で下層にいた人々です。

水俣では苦しい暮らしをしていた人々が、朝鮮に行けば良い暮らしができると言われて渡っており、実際に朝鮮では水俣よりもはるかに良い暮らしができた人が多かったようです。日本人向けの社宅は当時の最先端施設でした。

それは植民地支配下で朝鮮人差別が横行する中、日本人が得られた特権でしたが、「チッソのおかげで良い暮らしができるようになった」と思ったり、「植民地は天国だった」という感想を抱いた人々もいました。

チッソ側のメリットとしては、人々の不満を反らすという側面があったと考えられます。日本の民衆の不満を反らすために侵略を行うというのは、近代日本ではよくあることですが、「植民地に行けば今度は自分が支配者になれる」という感覚を抱いた日本人がかなりいたようです。

グリセリン工場内部の白黒写真
朝鮮窒素興南グリセリン工場。(国立国会図書館図書館デジタルコレクション 『日本窒素事業概要』より)

――チッソが進出し朝鮮での経営の拠点となった「興南(フンナム)」という場所は、現在の朝鮮民主主義人民共和国にありますが、進出によってどのように変わっていったのでしょうか。

興南は元々は海沿いの漁村でした。その土地を強権的に買収して、工場地帯に変えていったので、そこに暮らしていた漁民たちの生活がまず破壊されました。その過程では、警察や行政が前面に出て暴力的な土地買収が行われました。日本人が利益を上げるための工場を、朝鮮人の漁民を追い出して暴力的に作ったのです。

そもそも興南という地名は、当時は日本語読みで「コーナン」と呼ばれていましたが、日本が新たに作った地名です。元々は別の村の名前があったのですが、チッソが進出するために新たな区割りがつくられ、その行政のトップに(チッソ創業者の)野口遵が就任しました。「企業城下町」が徹底的に強化されたような形と言えます。

持ち込まれた公娼制度––性買売と植民地支配

――当時チッソの進出先の街には、公娼制度による遊廓が立ち並んでいたとされています。こうした性搾取は植民地の支配構造とどのように関連していたのでしょうか。

公娼制度は国家が性買売1を公認する制度ですが、日本は植民地化する過程で、朝鮮にはもともと存在していなかった公娼制度を持ち込みました。それ以前の朝鮮には国家公認の性買売制度は存在せず、植民地化による大きな変化でした。

公娼制度…国家が性買売を公認・管理し、特定の地域(遊廓など)でのみ営業を許可した制度。日本では江戸時代に確立し、明治時代には府県・警察の管理下に置かれた。貧困を背景とした実質的な人身売買として国内外から批判され、戦後の1946年にGHQの命令により廃止された。

この結果、朝鮮では性買売と人身売買が拡大したと指摘されています。日本人が近代以降アジアに進出していった先には性買売施設がどこにもあると言われるくらい、日本人の対外進出と性搾取はセットになっていました。

日本人が進出した朝鮮の各地で、公娼制度による遊廓や料亭、カフェーなど事実上性買売が行われている場所も拡大するという状況が生じました。

チッソの進出先には急速に日本人人口が増え、膨大な性買売の需要が生じたので、日本から性買売業者が進出していきます。チッソに寄生するような形で莫大な利益をあげたこれらの業者が、蓄財することで有力者として台頭し、地方機構で役職に就くなど、朝鮮総督の支配を支える存在になっていったのです。業者が納める税金は植民地支配の重要な財源にもなりました。

こうした政治経済的な構造に性搾取が絡んでいたことには、日本人側の意識の問題もあったと考えています。植民地では自分たちが宗主国側の人間として君臨し、性を買う行為を繰り返す中で支配者としての意識を強めていったのではないか――当時の人々の言葉を、聞き書きなどの資料で読むと、そう感じられます。

植民地支配が性差別や性搾取を組み込んで強化されてきたという点は、非常に重要な論点として今研究上でも注目されていることです。性搾取と軍の関係については、日本軍「慰安婦」問題をはじめとして研究が進んできましたが、財閥と性搾取の問題についても考えなくてはならないと思います。

朝鮮での公害被害

――チッソが朝鮮で公害を引き起こしていた可能性については、どのようなことが指摘されてきたのでしょうか。

当時朝鮮で発行されていた新聞などでは、工場から排出される煤煙(ばいえん)の公害が非常に深刻だったと報告されています。呼吸器病とか肺病という表現で、若い世代の死亡率が高まっているという話も出ています。

また、工場からの排水による水質汚染で魚が死んで浮かび上がり、漁民たちがどうしてくれるんだと問題を提起していたという報道もあり、チッソが朝鮮で水質汚染や空気汚染をしていたことはほぼ間違いないと思います。

興南は空気汚染がひどくて工場から離れた所に住んでいたとか、排水は垂れ流しになっていたという日本人の証言も残っています。

煙が立ちのぼる工場の白黒写真
朝鮮石炭工業灰岩油工場。(国立国会図書館図書館デジタルコレクション 『日本窒素事業概要』より)

――被害の実態が把握されておらず、今となっては把握するのが非常に困難な状況にあるということですね。

当時は問題としてあまり取り上げられておらず、調査もほぼなされていません。

韓国の歴史研究者・梁 知惠(ヤン・ジヘ)さんの研究では、公害問題へのチッソの対応は日本と朝鮮でかなり落差があったと指摘されています。戦前の日本でチッソは一定の調査や補償をしていましたが、朝鮮では基本的にほぼ対応していません。

その結果、資料が残らず、当時の朝鮮人記者が何とか報道したものが断片的に情報を伝えているのみです。

――公害に関しては、工場法が1911年に帝国議会で可決、1916年に施行され、不十分ながらも公害規制の規定が存在していましたが、同法は植民地朝鮮では適用されていませんでした。これはなぜなのでしょうか。

端的に言えば、植民地に対する差別ということになるかと思います。工場法は労働者保護や公害規制に関して、工場に対する行政の監督など非常に不十分な形で定められたものですが、制定されたという意味はあったと思います。少なくとも日本国内では、労働者や住民に何もしないわけにはいかないという発想があり、政策を取らなければならないような状況にはなっていました。

ところが、法体系が異なる植民地朝鮮ではこれを適用しないことになった。結局その背景には、朝鮮人の人権を軽視する思想、それから企業の利益を最大化するためという理由が考えられると思います。

朝鮮ではチッソ以外にも、浅野セメントという企業が公害を起こしていますが、「工場法が適用されていないから公害が起こったのだ」という批判が当時朝鮮人側から出ています。差別があるから公害が起こったのだと。

――戦後、日本で起こった水俣病の背景には、こうした植民地への搾取の構造が影響しているのでしょうか。

朝鮮での公害と水俣病は質的に別の問題であることは前提ですが、植民地朝鮮でチッソが培ってしまった人権無視の体質が水俣病の背景になったとは言えるのではないかと思います。

水俣病に取り組まれた医師の原田正純さんは、水俣病の原因は「人を人と思わない差別」と指摘していますが、こうした差別は朝鮮で徹底した形で現れたものでした。

朝鮮でチッソの経営に重要な役割を果たした人物が、戦後水俣に戻ってチッソで重要な役職に就いているという人的連続性もありますし、やはり同じ会社ですから、植民地の体質が持ち帰られる面があったのではと思われます。

チッソが朝鮮でどのようなことをしたのか、戦後すぐに検証、批判してチッソの体質を改められていれば、随分と展開が違ったのではないでしょうか。

排水口から水が流れ出る様子。
有機水銀を含む工場排水の出口になっていた百間排水口。(安田菜津紀撮影)

――戦後、日本国内で公害規制が徐々に進んだ結果、公害規制の緩いアジアの国々へと企業が進出し、公害が輸出されていきました。植民地朝鮮で起きたことと、こうした戦後の流れは地続きとも捉えられるでしょうか。

戦前の日本では、大正デモクラシーと前後して国内で公害が社会問題になり、企業が国内では公害対策をせざるを得なくなりました。その結果、企業側が注目したのが植民地だった。植民地であれば公害対策をせずに工場が経営できるとして、公害を植民地に輸出したとも言えます。

そして、戦後も日本で公害への反対運動が高まり、企業が追い込まれた結果、アジアに進出していった。矛盾を外部に転化するという発想が繰り返されています。

歴史を見る時に一つの国だけで見てはいけないということはよく言われることですが、たとえば大正デモクラシーには非常に重要な意味があった一方で、それが同時に内部の矛盾を外に転化することにつながったことや、戦後の民主主義をどう考えるかといった論点とも関わってくると思います。ここに共通する構造があることを踏まえて、近現代日本の歴史全体を考え直す必要があると思っています。

植民地支配の歴史を、「終わったこと」にしないために

――こうした「加害の歴史」に、今を生きる私たちはどのように向き合う必要があるのでしょうか。

2つの観点からお話したいと思います。まず1つ目は、日本企業あるいは日本国家が行った人権侵害の問題について、日本国内とか日本人に限定して考える認識を乗り越えなければならないということです。

チッソという企業が何をしたのか、その総体を捉えなければならない。植民地朝鮮で何をしたかも当然そこに入ってきます。それを見なければ水俣病問題の本質はわからず、私たちの人権感覚も不十分なものになってしまうと思います。

1970年代頃に水俣病問題に取り組んだ人の文章を読むと、チッソと朝鮮の関係についての言及が結構多いです。水俣病問題と闘ったチッソの労働組合で朝鮮支配について学習する動きもありました。しかし、こうした植民地支配の責任に取り組むということは、残念ながら今の日本社会全体には十分には継承されていないと思います。

2つ目として、特にこの数年、日本と朝鮮半島の歴史問題を「終わった問題」、過去の問題にしようとする政治的動きが強まっていることを指摘したいと思います。

それどころか、植民地支配によって日本は朝鮮にいいこともしたんだという、学問的根拠のない主張まで横行してしまっています。

歴史問題として多くの人が思い浮かべる日本軍「慰安婦」問題や徴用工問題についても、未解決のまま人権侵害が放置されていますが、その他の問題についてはさらに何にもないかのように思われてしまっています。

そもそも本来、植民地支配の歴史の検証や反省というのは、何かひとつやったら終わるものではなく、歴史教育や記憶の継承などさまざまな形でなされなければならないものです。植民地支配の問題を正面から考えるような世論づくりをしていかないといけないと思っています。

※本記事は2026年5月29日に配信したRadio Dialogue「朝鮮と水俣」を元に、その後の状況も踏まえて編集したものです。

【参考文献】
加藤圭木著『紙に描いた「日の丸」——足下から見る朝鮮支配』(岩波書店)

(2026.6.10 / 聞き手 安田菜津紀、 編集 伏見和子)

  1. 「性買売」は韓国での用語で「売買春」の意味。 ↩︎

【プロフィール】
加藤圭木(かとう けいき)

1983年埼玉県生まれ。一橋大学大学院社会学研究科教授。専攻は朝鮮近現代史。著書に『紙に描いた「日の丸」——足下から見る朝鮮支配』(岩波書店)、『植民地期朝鮮の地域変容——日本の大陸進出と咸鏡北道』(吉川弘文館)。共編著に『歴史は”強者ファースト”か? 日本社会にはびこる歴史否定を世界的に考える』(岩波ブックレット、2026年)、『だれが日韓「対立」をつくったのか』(大月書店)。監修に『「日韓」のモヤモヤと大学生のわたし』(大月書店)、『ひろがる「日韓」のモヤモヤとわたしたち』(同)、『大学生が推す 深掘りソウルガイド』(同)。

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