新型コロナウイルスの感染拡大に伴い、「感染者バッシング」「自粛警察」といった現象も問題となっている。
もちろん、メディアの報じ方の問題、責任も大きい。報道に携わる人間として、「その報じ方でいいの?」「それを報じる必要があったの?」と問わなければならないところだと思う。
ただ、どんな情報を受け取ったとしても、それは寄ってたかって誰かをネットリンチするためのものではないはずだ。「社会の反感」を買った人間には、何をしても許されるかのような誹謗中傷の数々を前に、私たち大人は子どもたちに「いじめをやめよう」と、どこまで説得力を持ち語りかけられるだろうか。
そして、ネット上での暴言は、実際の暴力と直結しているように思う。例えば、感染者の家に石が投げ込まれたり、店舗に嫌がらせの貼紙が貼られてしまったり、ということが相次いで報じられてきた。
緊急事態宣言中は、私の近所のお店も、慣れないテイクアウトメニューに切り替えたり、忙しい合間をぬって申請作業をこなしたり、皆ずっと気を張り続けていた。現在も、中々戻らない売上に頭を抱えながら営業を続けているお店が多い。その上に、何かバッシングを受けるのではという緊張がふりかかる。負担は計り知れない。
法を犯すようなことをしてまで「やめろ」と主張する行為は、社会のためというよりも、自分自身の感情の発散が目的化してしまっているように思う。
こうして社会が萎縮していくことによって、体調を崩している人がますます、声をあげづらくなるかもしれない。結果的にそれは、彼らが望むような「感染防止」の妨げになってしまうはずだ。
そもそもこの、「自分は我慢してるのに、あいつは我慢してない」というような過度な“監視”は、矛先を誤っているのではないかと思う。本来、監視すべきは「安心して休業して」といえるだけの支援策が遅れに遅れている政策の方ではないだろうか。
辻田真佐憲さんが書かれた「脅迫・中傷・投石・落書き・密告…多発する「コロナ差別事件」の全貌」ではこうした指摘がある。
「日本で「自粛要請」が機能するのは、「民度が高い」からではなく、このような「道徳自警団」や「自粛警察」の私的制裁が存在するからだ。しかもこれらの人々は、しばしば「地域を守るため」「家族を守るため」善意でやっている」
もちろん、誰も経験したことがない状況の中で、不安を抱いたり、ストレスを溜めてしまっている状況は致し方ないし、それ自体を否定すべきではないと思う。でもそれは、人を理不尽に攻撃していい理由にもならない。誰かを傷つけることで不安を覆い隠すのではなく、「恐れ」を抱く自分自身の内面とこそ、向き合いたいところではないかと思う。
例えば、感染者の方の報道に触れたときも、安易にその人をジャッジするのではなく、「自分自身はどういうことに気をつけて行動すべきか」と考えるきっかけにすればいいのでは、と思う。
ぎすぎすした空気を生まないためにも、自分の行動を変えていくためにも、そして「助けて」という声をあげやすい場を作るためにも、こうして「ベクトル」を変えていかなければならない時ではないだろうか。
▶コロナ禍で「ちょっぴりしんどいな…」というあなたに
(写真・文 安田菜津紀 / 2020年11月)
※本記事はCOMEMOの記事を一部加筆修正し、転載したものです。
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