※本記事では訴訟の内容をお伝えするために、差別文言を記載している箇所がありますのでご注意ください。
9月を目前にしても、京都・ウトロ地区は真夏の盛りのような強烈な日差しに照りつけられていた。4月に開館したウトロ平和祈念館から数分歩くだけでも、額から絶えず汗がつたう。真っ青な空とは対照的に、家々の間から見えてきた放火跡地は、1年前と変わらず、痛々しい焦げ跡が残ったままだった。
2021年8月30日、「ウトロは不法占拠されている」などのデマを信じ込み、当時22歳だった男性が、ウトロの倉庫に火を放った。祈念館が開館する予定であることを知った男性は、それを阻止するために犯行に及んだと語っている。祈念館に展示予定の看板が保管してあった場所を、意図的に狙ったのだ。
「世間の注目」を集めようと
ウトロはかつて、戦中の国策として推進された「京都飛行場」建設のため、そこに集められた朝鮮人労働者たちの「飯場」跡に形成された集落だ。敗戦を迎え、結局この飛行場建設はとん挫する。ウトロに残された人々は、過酷な環境の中、時に容赦のない差別の矛先を向けられていくことになる。
1987年、ウトロの土地が住人たちの知らないうちに転売され、この地で暮らしてきた人々は立ち退きの危機にさらされることとなった。日本の司法も、植民地支配や戦争といった歴史的背景の中にある本質を顧みなかった。その後、市民からの募金や、韓国政府、財団の支援を受け、一部土地を買い取ることで、立ち退き問題は「克服」されていった。
男性はウトロ放火以前に、愛知県内の韓国学校などに火をつけたことでも起訴されている。この愛知県内での犯行が思いのほか「世間の注目」を集めず、その後、ウトロに目をつけたことを裁判でも供述していた。公判ではその言動が注目されたが、反省のそぶりは見られなかった。メディアが面会に訪れる度、在日コリアンらに対する差別的動機を語っていたことが明らかになっている。
ほぼ炭と化した倉庫の柱を眺めながら、私は2年前、この場所に立った時のことをもう一度、思い浮かべてみた。父のルーツを巡る旅は、ここ、ウトロからはじまったのだ。
父のルーツと、ウトロとの出会い
『もう一つの「遺書」、外国人登録原票』でも記しているように、父は、私が中学2年生の時に亡くなった。その後、戸籍を見る機会があり、父の欄に見慣れない「韓国籍」という文字を見つけた。亡くなるまで、父は自身が在日コリアン2世であることも、家族がどんな人々なのか、今生きているのかさえも語らなかった。
古い書類をかき集め、ようやく祖父母の出身地や、戦後暮らしてきた場所が少しずつ明らかになってきたのは、ここ2年ほどのことだ。けれどもそのルーツをたどろうにも、手がかりとなるのは、粗いモノクロの書類に残された住所と名前だけだった。まずは父の生まれた京都を目指そうと、友人で、ジャグリングパフォーマーとして活動しているちゃんへん.さんを頼った。
ちゃんへん.さんはウトロの出身で、幼少期をそこで過ごしている。「案内してもらうなら、僕より適任の人がいるので」と、ウトロで引き合わせてくれたのが、現在、ウトロ平和祈念館で副館長も務める金秀煥(きむ・すふぁん)さんだった。
私は事情を説明するため、父たちの外国人登録原票を秀煥さんに見せることにした。この原票の成り立ちを知るには、戦中、戦後の歴史をたどる必要がある。
植民地時代、形の上では「日本人」として扱われた朝鮮半島出身の人々は、日本の敗戦後、一方的に国籍を剥ぎ取られ、「外国人」として扱われることになる。ウトロの人々もまさに、その渦中にいた人たちだ。
「外国人登録制度」は、その「外国人」とされた人々を、「管理」「監視」し、それによって「治安維持」していく仕組みといえる。戦前から、そして今に至るまで、「外国人」を見る目線は大きく変わってはいない。
一定の期間ごとに当事者たちが役所などへ出向き、住所や職業の届け出のほか、指紋押捺を求められ、写真を撮られてきたことが「外国人登録原票」に克明に刻まれている。残された手がかりがこうした「管理」の記録であることに加え、そもそも「家族のことを知りたい」という個人的な事情で、秀煥さんに時間を割いてもらっていいものか、私は少し躊躇していた。
そんな心配をよそに、「おお、すごいですね!」と、秀煥さんは興味深げに原票に見入っていた。実は当事者であっても、この外国人登録原票を見たことがなかったり、引き出し方を知らなかったりする人が少なからずいることを、私はこの旅を通して知ることになる。「どうやったら開示できるんですか」と聞かれたことは、一度や二度ではなかった。「貴重な資料ですね」と繰り返す秀煥さんの様子に、どこかほっとしている自分がいた。この時のことが、旅の背中を押したことは間違いない。
「ウトロに祈念館を建てるんです」と、計画の展望や、直面している課題などを秀煥さんが語ってくれたのはこの時だった。当時はまだ、ウトロの人々が生きた証が無残に焼かれることなど、想像もしていなかった。
「差別」が盛り込まれなかった判決文
今年(2022年)8月30日、放火事件から1年という日に、被告男性に対する判決が言い渡された。入廷した被告人、有本匠吾氏は、痩せている、というよりも、私には随分とやつれているように見えた。ときおり裁判長の言葉にうなずいてはいたものの、まるで他の人々など存在しないかのように、傍聴席に目をやることはなかった。
被告人に下されたのは、検察の求刑通りの懲役4年だった。判決は一連の事件を「在日韓国・朝鮮人という特定の出自を持つ人への偏見と嫌悪に基づく身勝手な犯行」とし、「自らの望む排外的な世論を喚起する」など、無反省の被告が語った差別的動機が顧みられていることはうかがえた。「偏見」という言葉が入ったことに一定の評価の声もある一方、「差別」という文言が加えられなかったことを、被害者弁護団は重く受け止めていた。
この連続放火事件は、住人の方々のみならず、同様のルーツを持つ人々に恐怖を与え、沈黙や委縮を引き起こしてしまうような犯行だっただろう。差別に基く犯罪――「ヘイトクライム」であるという認識を明言しないまま、その差別構造はどこまで伝わるのだろうか。
諦めず今日まで生きてきた人たちに
判決後の記者会見で、ウトロを長年取材してきたジャーナリストの中村一成(なかむら・いるそん)さんが手をあげた。
「かつて日本の司法によって、そこに暮らすことを完全否定された人たちに対して、今日の判決をどう、お伝えになりますか」
質問というよりも、投げかけだったように思う。秀煥さんが一語一語を噛みしめるようにこう返す。
「社会が底抜けに劣化しているような面もある中で、この事件の深刻さと、それがウトロの人たちに与えた被害が認定されたことは、前進。生きる権利、住む権利を主張し続け、あきらめずに今日まで生きてきた人たちに対して、時代は進んでいるんだ、と伝えたい」
判決文では、財産的損害を被ったことに留まらず、事件が住人たちへ与えた精神的な苦痛についても触れている。
中村さんが言うように、「かつてその場所に暮らすことを司法からも否定された人々」が、そこに生活する住人として被害を被ったのだと司法が受け止めた――それを希望につなげたいと秀煥さんは語っていた。
翌日、再び炎天下のウトロを訪れた。焼け跡の一角には、この場の空気を少しでも変えていこうと、住人のオモニ(お母さん)のひとりが作った小さな畑があった。新鮮なエゴマやトウガラシが、日光の下ですくすくと育つ。ここが、人々の営みの根付いてきた場所であることを、改めて思う。
祖父母の生まれた地へ
ところで、わずかな書類を頼りに心もとなく始まった「ルーツを巡る旅」は、いよいよ、海をこえることとなった。2年間待ちに待った、韓国への渡航だ。
祖父母の手がかりを韓国側に求め、ハングルで情報提供を呼びかけはじめたのは昨年末のことだった。
真っ先に届いたのはメッセージフォームを悪用した文言で、「あなたの人生は短くする必要がある」「反日レイシストは抹殺」という日本語のメッセージだった。脅迫めいた言葉も記されていたため、すぐに警察に届け出たものの、書き手はいまだ、特定されていない。
一方で、見ず知らずの人が温かい連絡をくれ、知人たちは我がことのようにその輪を広げてくれた。そして、ある確証を得ることができた。
この旅が始まったころは、新型コロナウイルスの感染拡大により両国が厳しい隔離措置を敷き、渡航後2週間、帰国後も2週間という「待機」の期間が大きな壁となっていた。ようやくそれが緩んだ2021年末、具体的な渡航計画を立てていた矢先に、オミクロン株が広がり渡航を断念した。加えて日韓両政府の関係には、深く亀裂が入ったままだ。一方、2022年8月から、期限付きではあるものの、韓国政府は日本からの観光目的の入国者に対するビザ免除を開始し、私はすぐに渡航準備を再開した。
これから海をこえ、祖父母の生まれた土地を訪ねにいく。矛盾するようなことかもしれないが、私は血縁に縛られたいと思っていない。むしろ血縁主義的な考え方に、抗いたいとさえ思っている。それでも、この断ちがたい、引き寄せる力は一体何なのか、自分にもまだ、分かっていない。
すでに数十年の時が経ち、当時の生活の痕跡はほとんど残されていないだろう。それでも2人がどう、その場所で呼吸していたのか、目いっぱいの想像力を働かせて見つめてこようと思う。
それでは、行ってきます。
(2022年9月6日 / 写真・文 安田菜津紀)
▼祖父母の手がかりを探しています。詳細はこちらの記事にも書いています。
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