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取材レポート

2024.1.30

1945年、フィリピンでの日本軍による性加害――マニラ市街戦のさなかに起きた「ベイビューホテル事件」

安田 菜津紀 Natsuki Yasuda

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佐藤 慧 Kei Sato

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田中 えり Eri Tanaka

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安田 菜津紀 Natsuki Yasuda

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佐藤 慧 Kei Sato

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田中 えり Eri Tanaka

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田中 えり Eri Tanaka

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田中 えり Eri Tanaka

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安田 菜津紀 Natsuki Yasuda

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安田 菜津紀 Natsuki Yasuda

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佐藤 慧 Kei Sato

佐藤 慧Kei Sato

田中 えり Eri Tanaka

田中 えりEri Tanaka

2024.1.30

取材レポート #田中えり #フィリピン #戦争・紛争 #平和 #政治・社会 #女性・ジェンダー

(※本記事では実態をお伝えするために、性加害行為について具体的な記述をしている箇所がありますので、ご注意ください)

フィリピン・マニラ市内のマニラ湾沿岸沿い、エルミタ地区を車で走る。ビルやホテルが集まるこの地区は、フィリピンのアメリカ占領下で発展し、かつては上流階級の人々が暮らす街だったという。太平洋戦争を経て、現在は歓楽街となっている。

マニラ湾のすぐそば、ロクサス大通り沿いにオレンジ色の大きな建物が見えた。掲げられているのは「BAYVIEW PARK HOTEL MANILA」の文字。現在も営業しているホテルだ。すぐ近くの広場では、人々がバスケットボールをして遊んでいた。

戦後建て替えられたというこのホテル。戦時中は、ベイビューホテル Bayview Hotel という名称だった。1945年2月、日米によるマニラ市街戦のさなか、このホテルである事件が起きた。

ベイビューパークホテルの外観。(撮影:佐藤慧)

 

日本軍による残虐行為、性加害も

太平洋戦争初期の1942年、日本軍はアメリカに代わってフィリピンを占領した。厳しい軍政を敷き、捕虜や民間人の虐殺など、下記の記事で伝えたように、残酷な加害行為を行っていた。

加えて、他のアジア各国と同様にフィリピンでも日本軍による性加害が起きた。フィリピン各地に作られた「慰安所」には、朝鮮人や中国人、そして現地のフィリピン人などが「慰安婦」として連れてこられた。「慰安所」以外の場所でも、日本兵による強かんが横行していた。

中でも規模が大きく、組織的に行われたと考えられているのが「ベイビューホテル事件」である。

 

数百人の女性をホテルに監禁

1945年2月9日から12日または13日までの4、5日間、同ホテルや近くのアパートで、周辺に住む女性数百人が監禁され、日本兵から繰り返し強かんされた。アメリカ軍の捜査によると、中には10代前半の子どもも含まれる。フィリピン人のほか、イタリア人、ロシア人、アメリカ人、イギリス人なども被害を受けたという。

制作:Dialogue for People

マニラ市街戦開始(1945年2月3日)から6日後の9日午後、エルミタ地区で火災が発生。住民の多くが、日本軍によって、ベイビューホテル南側にある広場に集められた。その日の夜、日本軍は住民たちを男性と、女性と子どものグループに分け、女性と子どもたちはベイビューホテルへと連行された。その中でも若い女性20数人は、日本軍人が酒を飲んでいたという広場近くのコーヒーポットというレストランへ連れて行かれ、その後、他の女性たちと同様にベイビューホテルで監禁された。

現代史が専門で日本軍の戦時性暴力に詳しい関東学院大学経済学部の林博史教授は、この事件について「有名であるにも関わらず全く研究がない」とする。事件詳細については、林教授がアメリカ軍の捜査報告書を基に論じた「マニラ戦とベイビューホテル事件」に詳しい。

 

繰り返された暴行

当時、ホテルは10階建てで、約150の部屋があったとされる。

ホテルに連れて来られたのは少なくとも400人。複数の部屋に数十人ごとに押し込められた。そこへ日本兵が来て、女性の顔を懐中電灯などで照らして選び、別の部屋へ引きずり出していき、ひとりまたは複数人で暴行を加える。夜中、それが繰り返されたという。

夜が明け、2月10日早朝。日本兵は戦闘へ行き、ホテルには女性たちが残された。ホテルの玄関には見張り役の警備兵がおり、逃げ出すことはできなかった。

隔離されていた人々は互いに助けを求め、200~300人がダイニングルームに集まった。この悪夢を終わらせて、と日本軍側に訴えたが叶わず、再び夜が来た。

2月10日や11日には、ホテルにいた女性のうちフィリピン人(と見なされた人たち)100〜200人がホテル近くの2つのアパートに移動させられた。そしてそこでも、ベイビューホテル同様に日本兵によって暴行を受けたという。

夜になると戦闘を終えた日本兵がホテルに集まり、朝になると彼らは戦闘へ戻っていく。それが繰り返された。日を経るごとに、日本兵の数は減っていったという。戦闘で亡くなっていったと推測できる。

そして監禁4日目、2月12日の午後、ホテルで火災が発生した。逃げようと1階に集まる人々。女性や少女たちがホテルから出ることを日本軍将校が認め、彼女たちはようやく解放された。翌13日午後までの間に、他の2つのアパートでも火災が起き、人々は逃げることができた。

だが、そこで被害が全て終わったわけではない。その後も、家に隠れているところに日本兵がやってきたり、外を逃げ回っている際に日本兵に遭遇したりして強かんされたという証言が残っている。

現在のベイビューパークホテル。(撮影:佐藤慧)

 

ホテルで何が起きたのか

暗い部屋でうずくまる女性や少女たち。年配の女性は、若い女性を守ろうと布団をかけ覆い被さった。できるかぎり醜く見せようと髪の毛を顔の前に垂らし、顔に土を塗る人もいたという。
女性たちは泣き叫んだ。悲鳴を上げた。恐怖に怯えながらも、必死で抵抗した。それでも、日本兵は銃剣を突きつけ、殴る蹴るなどの暴力を加え、女性を無理矢理に別の部屋へと連れて行った。

先出の林教授の論文には、被害を受けた女性たちの証言が掲載されている。

24歳のフィリピン人女性の証言によると、まず3人の日本兵によって彼女の2人の姉妹が連行された。次に別の少女たちが連行され、その次にほかの少女と本人が連行された。彼女が連行された部屋には 3人の日本兵がおり、1人が強かんしている間、ほかの2人は見ながら笑っていたという。彼女は抵抗するが顔を殴られ、3人に強かんされた。その後、3人の日本兵は部屋から出て行ったので、1 人で這って部屋にもどったが、しばらくして別の日本兵に連行されて同じ目にあった。その夜、10数回強かんされたという。

(林博史「マニラ戦とベイビューホテル事件」関東学院大学経済学部教養学会、2012年)

 

アメリカ軍による捜査、加害者は特定できず

アメリカ軍はこの事件直後から捜査を開始し、ベイビューホテルに連行された女性など関係者100人以上に聴取した。

アメリカ軍の捜査報告書によると、関係者の証言によって得られた強かんの被害者数は40人、未遂の被害者数は36人。だが、ホテルに連行された人(少なくとも400人)全員に聴取できたわけではない点や、現代以上に被害を名乗り出ることが難しかったであろう性被害の特性を踏まえると、実際の被害人数はこれよりかなり多いと考えられる。

強かん被害者40人の年齢の内訳は、10代が16人、20代20人、30代2人、不明2人。最も幼い人は14歳だが、12歳の被害者もいた可能性も指摘されている。

被害者や未遂者を国別で見ると、フィリピン、イタリア、ロシア、アメリカ、イギリス、中国、スペインの人々だった。マニラ市街戦での市民の虐殺でもそうだったが、日本兵は、連合国民、同盟国民、中立国民関係なく、無差別に攻撃を加えていたことが分かる。

1945年8月の終戦後、米軍はベイビューホテル事件の加害者を特定しようと日本軍側の捜査も始めた。だが、この事件を具体的に指示した者、実行した者の特定には至らなかった。

フィリピンでのアメリカ軍との戦闘を指揮した第14方面軍司令官の山下奉文大将は、フィリピンでの戦争犯罪の最高責任者として戦犯裁判にかけられ、絞首刑に処せられた。その起訴容疑のひとつに、このベイビューホテル事件が入っている。

だが、林教授によると、この事件が起きた具体的な経緯は分かっていない。司令官や将校が関わって計画的に行われたのか、そうであればどのレベルの司令官なのか、あるいは、女性たちに暴行を加えてよいという指示があったのか――。ただ、兵士たちが毎晩自分たちの持ち場を離れてベイビューホテルに行くことができた点を踏まえると、組織的な関与があったと見るべき、という。

ベイビューパークホテルの近くの広場で。(撮影:佐藤慧)

 

「絶望のはけ口」

現地で戦跡ツアーのガイドを長年続けるSuenaga Hidekoさんは言う。

「死に直面した者の狂気ですよね。絶望のはけ口。これがベイビューホテル事件と言われています。ただ、ベイビューホテルに関しては誰も殺していないんです。他の残虐行為ではみんな殺されている。どっちが良い悪いは言えないですけどね」

Hidekoさんの言う通り、ベイビューホテルに監禁された女性たちは、殺されずにそこから解放された。

林教授はこう説明する。

「おそらく女性たちを殺す前に、日本軍がアメリカ軍との戦いで戦死していったという点が大きいのではないでしょうか。日本軍がもう少し長く抵抗できていれば殺された可能性はありますね。一般的に、強かんをしてその被害者を殺すのは誰がやったかばれないようにするため。つまり、自分たちが生き残る前提です。(兵士たちは)どうせここで死ぬ、玉砕するからどうなろうと関係ないという意識だったのかもしれません」

エルミタ地区とその南側を守っていた海軍マニラ防衛隊第2大隊は、兵士の約9割が戦死している。

林博史教授。(撮影:田中えり)

 

「男性は虐殺され、女性は性の対象に…」

ここで、フィリピンでの日本軍の性暴力について大枠を整理する。他の東南アジアでも同様だが、当初は後方部隊によって「慰安所」が作られるか、前線の部隊がそれぞれの駐屯地で「慰安所」を設置した。戦況が悪化してくると、日本兵は戦地で暴力を伴って女性を連行、監禁して性加害を行った。

マニラ市街戦を戦った「マニラ海軍防衛隊」は、沈没した戦艦の乗組員や現地の日本人らで構成された、いわば寄せ集めの部隊であり、独自の慰安所は持っていなかったとされる。

現地の女性を1ヵ所に集めて監禁し、繰り返し強かんするというこのベイビューホテル事件のやり口について林教授は「他ではあまり見られない」とする。

「このマニラ市街戦のように、都市で立てこもるという戦い自体が日本軍にほとんどない。米軍に包囲された中に日本軍と住民が一緒にいて、男性たちは虐殺され、女性たちは性の対象にされた」

林教授は「この時のフィリピンでの日本軍の行いは極端に残虐」とも指摘する。「抗日ゲリラが強力だったという点はあるのだろうが、なぜここまでフィリピン人に敵意を持つのか…」。

このベイビューホテル事件以外にも、1944年11月のパンパンガ州マパニケ村での住民虐殺、集団強かんをはじめ、フィリピンの各地で残虐行為が行われていた。

加害側である日本軍の中で、この事件の実行を指示した者は分かっておらず、事件が起きた経緯やその背景については推測の域を出ない。だが、当時の日本兵が置かれた状況を考えてみると、各地に作られた「慰安所」というシステムの存在が、事件にも影響しているのではないだろうか。

「慰安所」の始まりは1932年。満州事変の翌年のこの年、上海事変で日本兵が中国人女性を強かんし、現地の対日感情の高まりを抑えるために陸軍が「慰安所」を作ったとされている。そしてその後、各地に「慰安所」が作られていった。「慰安所」設置の狙いとしては、《日本兵が性病にかかって兵力が落ちるのを防ぐため》《日本兵による強かんを防ぐため》《軍の目が届かないところで兵士が女性と関係を持って軍の機密が漏れるのを防ぐため》などが言われている。

戦地には慰安所があり、そこで性行為ができる――。それが「当たり前」という意識があった日本兵からすれば、女性に性行為を強要することに抵抗さえなくなっていたのかもしれない。

 

悲劇が二度と起こらないように

マニラ・エルミタ地区内の公園。ここに、日本軍による性加害の犠牲者へ捧げられた石碑がある。

日本軍性奴隷の犠牲者へ捧げられた石碑。(撮影:佐藤慧)

碑文の内容を見ると、フィリピン各地にあった「慰安所」などで、日本軍が関係して行われたレイプや女性への虐待について言及されている。そして「このような悲劇が二度と起こらないように」という願いも綴られていた。

フィリピンでは、2017年12月に慰安婦を象徴する像がマニラ湾沿いの遊歩道に建てられたが、2018年4月下旬に「排水工事」の名目で撤去された。これは、像設置に「遺憾の意」を表明していた日本への「配慮」と言われている。その後、像を別の場所へ設置しようという動きがあったが、設置の直前、保管場所から像がなくなったという。

像が設置されるはずだったメトロマニラ・パラニャーケ市のバクララン教会には、現在、台座のみが置かれている。

加害側である日本兵の行いは決して許されるものではないが、なぜベイビューホテル事件が起きたのか考える時、彼ら一人ひとりの中にある「被害」の側面にも目を向ける必要があるだろう。兵士たちは軍隊の駒の一つとして扱われ、命を軽視され、ひとりの人間としての尊厳などなかった。日本という大きな主語で語られる「加害」と、日本兵一人ひとりの中にある「加害」や「被害」のそれぞれの側面から見ていった時、戦争下で起こる出来事の問題の根深さやその複雑さに気付かされる。

「スペインはキリスト教を、アメリカは教育を残してくれた。日本は暗闇を残していった」

今回のフィリピン滞在中、現地で暮らす友人からこの言葉を教わった。フィリピンの人々から聞いた言葉だという。かつてフィリピンを占領した三つの国の行い――その実態はこの言葉ほど単純ではないだろう。300年以上のスペインによる植民地時代、その後のアメリカによる統治、そして戦時中の日本軍による軍政。《キリスト教》や《教育》という“恩恵”と言われるものがあったとしても、大国による支配は、その地で暮らす人々にとって多くの傷を残していることだろう。その中でも、日本が残したものが「暗闇」と言われることの重みを受け止め、その意味を考えたい。

一連の取材を通じて、日本軍の行いがフィリピンの歴史、そして未来にどれほど暗い影を落としたのか、改めて痛感させられた。なぜそのような加害行為をしたのか、その結果どのような被害が生まれてしまったのか、「戦争だったから仕方ない」で終わらせるのではなく、時代を越えた真摯な検証が求められている。

“戦後”を生きる私たちが、「暗闇」ではない別の何かを残していくために。

 

慰安婦の像が置かれるはずだった場所。台座だけがある。(撮影:佐藤慧)


 

(2024.1.30 / 田中えり)

 

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