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Essay

2021.3.25

『ファインダー越しの3.11』を振り返る(後編)

安田 菜津紀 Natsuki Yasuda

安田 菜津紀Natsuki Yasuda

佐藤 慧 Kei Sato

佐藤 慧Kei Sato

2021.3.25

Essay #Sato

本記事には東日本大震災による自然災害や死別に関する直接的な表現や写真が含まれています。そうした内容により、精神的なストレスを感じられる方がいらっしゃる可能性もありますので、ご無理のないようお願い致します。

前編はこちら⇒ 『ファインダー越しの3.11』を振り返る(前編)

当時撮影した写真の入ったフォルダを開いてみると、撮影したままほとんど見返してこなかった写真が何百、何千とあることに気づく。「何か」がこぼれ落ちないように、見逃したまま霧散してしまわないように……暇さえあれば自宅跡地周辺に出向き、夢中でシャッターを切って過ごした。

今振り返ってみるとその行為は、無意識下の不安が前頭葉で「言葉」として形とならないよう、「カシャリ」「カシャリ」というシャッターの音を重ねることで、かき消そうとしていたのではないかと思う。
 

死の予感

身近な家族の死は3人目だった。弟が亡くなったのが1991年。姉が2000年。そして母の死を予感しつつ、それを受け止めきれずに瓦礫の街を徘徊していたのが2011年。ほぼ10年置きに身近な誰かが無くなるという経験は、「死とは恒常的に起きるものである」という世界観を、更に強固なものにしていた。

姉弟の死を経験したことで、僕は「死」というものについて自分なりに考え始めた。人とは、死ぬものである。そのあたりまえの摂理の意味をずっと考えてきた。どのような生き方をしようとも、どれだけ素晴らしい人間であろうとも、「死」は突然に、そして平等に訪れるのだ。

(中略)

チクタクと時を刻む時計を眺め、その秒針がひとつ動く度に、世界ではどれだけの命が消えていっているのだろうかと想像した。どれだけの人が、失われた愛する人を想い、心を痛めているのだろうかと考えた。その痛みは、想像出来ないほどに大きい。(P88-89)

母の車は自宅から数百メートルのところでひしゃげていた。車に乗っていた形跡はなかった。

春の訪れが近づく陸前高田市を、突如季節外れの吹雪きが襲った。どこかで眠る母の遺体の劣化を少しでも食い止めようとする、自然の慈悲のようにも思えた。

「遺体のご確認をお願いします」
目の前に横たわる、人の大きさをした「何か」を包む灰色のビニール。中に何が入っているかはわかっている。僕は「それ」を見なければいけないのだ。ビニールの正面についたジッパーを恐る恐る開ける。人の顔を持った赤黒い「何か」が僕の視界に入ってきた。思考が止まり、一瞬にして痺れていく。ドライアイスで体中を固められ、肩にはうっすらと白カビの生えたその遺体は、僕の視線に反応することもなく静かに横たわっていた。目をつむり、僅かに開いた口は歪んでいた。慈愛に満ちた母の笑顔と、この目の前の「人のようなもの」とを一致させることは困難だった。(P94)

うつろいゆく生命観

結局それは、母だった。遺体は、川を9キロ遡った瓦礫と泥土の下から見つかった。当時は「やっと見つかった」という安堵と、火葬やら葬儀やら、諸々の対応でドタバタとしており、死別の悲しみというものをことさら感じていたわけではなかったと思う。そもそも、度重なる身内の死に「悲しみ」を感じる痛覚を麻痺させようとしていたのかもしれない。

数年後、糸が切れるようにプツリとエネルギーが切れた。「人はいずれ死ぬのに、なぜ今日を生きなければならないのだろう」と、答えの無い問いに生命力が奪い取られていくようだった。そこから少しずつ「悲しみと共に生きる」ことを受け入れるようになった過程は、下記記事を参照頂きたい。

『悲しみと共に生きる』 第1回:物語を組み立てなおす

「死とは恒常的に起きるものである」という価値観による不安や恐怖は、「死」と「生」というものを二項対立で考えることを止めることから、数年かけ、徐々に解体されていった。しかし、こうしたゆるりとした生命観、死の捉え方というものは、僕ひとりで獲得してきたものではなく、これまでの人生の様々な体験、出会いによって形作られてきたものだと思う。

生前母と、死後はどのように埋葬してほしいかということを話したことがある。「別に墓もいらないし、土に還してくれたらいいよ」というのが、その時の母の答えだった。ふたりの子を失い、母なりに死について深く考えていたのだろう。そんな母だからだろうか、亡くなる前に遺した短歌は、その死生観をあますことなく表しているように思えた。

母は生前、短歌を詠んでいた。弔辞の中で、母の知人がひとつを詠んでくれた。

海霧に
とけて我が身もただよわむ
川面をのぼり
大地をつつみ

陸前高田の空に舞う海霧、やませを詠んだこの歌は、母の最後の瞬間を詠んでいるかのようだった。母は確かにその自然に命を奪われた。その海は、川は、山は、母の命を無残に叩き潰したのだ。しかしその大地に、母の魂が静かに、深く染み入ったのも確かなのだ。大いなる自然への畏怖、そして感謝。命とは与えられているもの。人とは生かされているもの。(P102-103)

母のその短歌は、その後、仏教音楽である「聲明」にして頂くことになった。

この母の短歌に対し、東日本大震災発災から10年目となる今年、僕の返歌もまた、作曲家の宮内康乃さんに「聲明」にして頂くという機会があった。もともとは「返歌」として考えていたわけではない。「新しく作曲する曲のイメージの核となる言葉が欲しい」と言われ書いたものが、奇妙にも母の短歌に対する「返歌」となっていることに、言われてから気づいたのだ。

彼岸に渡り
銀河の砂塵と 散りゆきて
なおもあまねく
命のほとり

このようにして「聲明」という形ある作品にして頂くと、彼岸と此岸で文通をしているような、なんとも不思議な感覚を覚えた。「死者」はもう、空気を震わして言葉を放つことはないかもしれない。けれど「死者」に対し、残された人間から「語りかける」ことはできる。10年前に母が亡くなり、その4年後には父が亡くなった。しかしふたりから頂いた学びは、今も僕の中で日々新たなことに気づかせてくれるし、きっとこれからもそうした見えない交流は続くだろう。「風の電話」や「漂流ポスト」(※)が必要とされる背景には、そうした祈りにも似た交流が、生きる力や希望を与えてくれるというそれぞれの想いがあるのだと思う。

(※)「風の電話」「漂流ポスト」
ともに亡くなった人などへの想いを伝えるための電話、ポスト。「風の電話」は岩手県大槌町に、「漂流ポスト」は岩手県陸前高田市にある。

それと同様に、僕にとってこの本(『ファインダー越しの3.11』)は、当時の自分から、今の自分に向けての手紙でもあったように思う。あの「ファインダー越し」に見た日々の光景は、その悲しみも、喜びも、どこかで途切れ、過ぎ去ったものではなく、今の自分の内面に、連綿と流れ続けている。

(2021.3.26/写真・文 佐藤慧)


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