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第6回:「まなざすもの」と「まなざされるもの」の非対称性と、自らに巣食う植民地主義―ローレンス吉孝の「あぎじゃびよ〜通信」

つながりと連帯の場としての府外教
6月20日大阪。年に一度行われている大阪府在日外国人教育研究協議会(府外教)の第34回研究集会に参加するため新幹線を降りた。この集会は、主に府内の小学校や中学校の教員たちが一堂に会し、外国につながりがある児童・生徒に向けて各学校が日常的に行っている様々な教育実践が共有される場である。
午前中に、全体会としてオープニングイベントと講演会。午後には25の学校が各取り組みを報告する実践交流分科会が開かれた。

オープニングイベントでは外国にルーツのある子どもたちによる楽器演奏や伝統舞踊が披露された。そして、中学校の夜間学級に通う生徒による作文の朗読があった。在日コリアンとして日本に暮らし始め、さまざまな人生経験をしながら70歳を過ぎた。友達に誘われたことがきっかけで夜間学級に通い始め、そこで日本語や在日コリアンの歴史について学び、自分自身の人生を振り返る日本語の作文を日本語で朗読した。自分自身の人生を、学校を通じて理解し、表現することに心から喜びを感じている文章であった。夜間学級には様々なルーツ、様々な年齢の生徒が通っている。彼女は、その場が自分の居場所であると語った。年齢や体力のため学校に行くのにとても疲れるが、教室に入ると疲れを忘れるぐらい楽しいと語っていた。
自分の人生の意味を理解することができること。自分の居場所を見つけること。それがどれほどの喜びをもたらすのかを知ること。
私はその作文を舞台袖で聞いていた。涙が溢れた。
オープニングイベントの次は、私が講演を行った。タイトルは「子どもたちを守るために―排外主義に揺れる社会の中で―」である。排外主義の風潮が強まる中、現場で子どもたちと日々触れあう先生たちから与えていただいた講演テーマであった。
全体的な内容としては、私の専門テーマであるいわゆる「ハーフ」や「ミックス」と呼ばれる人々の経験をインタビューやアンケート調査から明らかにし、日常で経験するマイクロアグレッション(日常における偏見に基づいた攻撃)の実態と、それに起因するメンタルヘルスの問題、そして教育の現場において心理的安全性を高めるためのアイディアを共有するといった流れであった。
講演資料はあらかじめ作成し、1週間前には出来上がっていた。しかし、ちょうど前日の19日、とある記事が公開され、それを急遽1ページ目に追記した。その記事とは、仙台市の小学校で外国ルーツの児童に対するいじめが「重大事態」と認められたという報道であった。この児童は、「国に帰れ」と同級生数名から言われ、ランドセルに釘を刺されたという。府外教大会の講演冒頭で私はこの記事を取り上げたが、話している途中で胸が詰まり、話している言葉がしばらく出てこなくなってしまった。
直前に、同じぐらいの年齢である子どもたちの演舞を見ていたからかもしれない。高齢になってようやく居場所を見つけた生徒の話を聞いた直後だったからかもしない。

排外主義は、具体的な暴力と排除として結実するということだ。
私はそれについて、Dialogue for Peopleの「憎悪のピラミッド1」の図を引用して説明した。
ここでは、「日常の先入観・偏見からいかに差別が生まれ、ジェノサイドへと至るかということを端的に説明する概念図」と解説されている。

心理的安全性を高める教室運営のあり方が、子どもたちの人生にとってどのような意味をもたらすのか。それが、排外主義の風潮が強まる社会においてどれほど重要な抵抗の砦となり得るのか。
自分が持ちうる限りの話をした。
午後には、各学校が取り組みを共有する実践交流分科会に参加した。多くの教室に分かれて開催された分科会はさながら学会のようだった。ここでは先生たちが現場で工夫している実践や取り組み、日々の子どもたちの様子などが実践事例として共有されていた。
運営の人に確認したところ、こういった海外ルーツの子どもたちの教育実践を持ち寄る研究集会は全国でもめずらしく、大阪で元々、同和教育やアイヌ・沖縄・在日コリアンの人々に関する人権教育が長い間行われてきた歴史がベースとなり、こういった集会が開催されるようになったそうだ。他の都道府県ではあまり見られない教員同士のつながりの場であり、子どもたちを支える上での重要なセーフティネットとなっている。
暗澹たる排外主義の状況の中、人々の日々の実践と連帯の重要性に改めて気付かされる体験をした。

植民地主義に気づくということの意味
7月26日。Black Rad Collective(以下、BRC https://www.instagram.com/black.rad.collective.jp/ )が主催するコミュニティ・ダイアログ「日本における反黒人(Anti-Blackness)と脱植民地主義的視点」に参加した。
コレクティブのインスタグラムには以下のように説明書きが記載されている。
「私たちは、パンアフリカニズムと脱植民地主義を軸に活動するBlack Collectiveです。反黒人性や植民地主義、そして西洋中心的な視点を問い直し、対話だけでなく行動へとつなげるコミュニティづくりを目指しています」
はじめに岐阜大学のジョン・ラッセルさんによる日本の黒人表象に関する包括的な研究報告が行われた。元々、黒い肌に関する描写は歴史的に見られ、白人と黒人が同等に描かれる絵も存在していた。しかしペリー来航などをきっかけに白人至上主義がもたらされることで、次第に黒人が卑しめられるような描き方で記されるようになって行ったという。つまり、黒人に対する差別的な偏見と表象の背景には、植民地主義と白人至上主義が存在するということだ。
そういった歴史背景の中で、黒人に対する差別的な表象や偏見が日本社会の中にも根付くようになって行った。現在でも有名なスポーツ選手が深刻な差別発言を受けたり、警察による人種差別的な職務質問などのレイシャル・プロファイリングや、職場や不動産における排除や抑圧などの不平等な状況が続いている、という報告がなされた。
次に、日本で暮らすブラックルーツの方やミックスルーツの方による対談として齊藤 花 ジェニファーさん、パイロさん、久保 ジャネット 珠希さん、そして在日コリアンの韓裕香(Han Yuhyang)さん2による座談会が行われた。日常で経験する様々な偏見の現実や、植民地主義が交差する中で、抑圧を受ける人々の共通点や連帯の可能性なども模索される話し合いの場となった。
そして、BRCメンバーである礒元 メリッサ 瑠奈さんと齊藤 花 ジェニファーさんによる日常におけるマイクロアグレッションの実態、インターセクショナリティを重視した分析枠組み、マンガやアニメなどメディアにおける黒人表象の状況、そして植民地主義と白人至上主義に内在する「まなざし」の構造の議論などがなされた。
お二人は講演の中で、展示における「まなざす」側と「まなざされる」側という空間的な比喩を用いて、植民地主義の構造を説明されていた。植民地主義において、黒人の人々は歴史的に、あたかも博物館で展示されているもののように、「見られる」存在として位置づけられてきた、という。そしてそれをまなざす支配者達が存在している。そして、見る側と見られる側の間には制度としての「柵」が設置されている。この植民地主義の権力構造の中で見られる側は、Dehumanize=脱人間化され、「モノ」であるかのように扱われる、という。つまり、それを名指したり、意味づけたり、表象したり、所有したり、文字通り支配することができる権力が、「まなざす」側にあるということだ。

植民地主義や白人至上主義に向き合うためには、この構造を理解すること。そして自分自身の立場性を理解すること。そして、その構造そのものを解体することが必要である。
お二人から最後に、日本におけるブラックルーツの人々が、借り物でも固定化されたステレオタイプでもない、自分たち自身のブラックネスというアイデンティティを築いていくことの重要性、そしてブラックコミュニティの未来を築いていくという宣言がなされた。
その後、モーリス・シェルトンさんによる報告が行われた。
報告では日本におけるブラックルーツの人々の制度的差別の現状が様々な事例と共に紹介された。また入管における深刻な人権侵害的状況の報告、そしてレイシャルプロファイリングに対する公共訴訟の取り組みなどが紹介された。モーリスさんからは、アンチブラックネス=反黒人性への抵抗として一人ひとりが立ち上がること、少しずつでも声をあげることの重要性が訴えられた。入管での不当収容や差別的なレイシャルプロファイリングについて、様々な活動を知ったり、応援したり、SNSで情報をシェアしてほしいという。
最後に、参加者とグループディスカッションの時間を共にし、自分達一人ひとりにできることを話し合った。
イベントのオーガナイザー、スタッフ、翻訳者、参加者の多くが日本に暮らすブラックルーツの当事者の方々であった。そして、登壇された一人ひとりの言葉そのものが、「まなざすもの」と「まなざされるもの」の立場性を交換させ、その非対称性を問い直すものとなった。まなざされてきたものが見つめる世界を、その視点を通して、自分も見ようと試みた時に、果たしてどういった風景が広がって行くのか。
インターセクショナリティを重視し、植民地主義をブラックルーツの人々の視点から批判するこのイベントは、間違いなく日本の歴史に残る、特筆すべき場であった。
イベントで一人ひとりの話を聞く中で、私自身も常に自分自身の立場性と向き合った。白人という圧倒的に優位な人種的ルーツ、アジア諸国を侵略し植民地化した日本のマジョリティのルーツ、そしてその双方に支配され植民地化された沖縄というルーツ。
そして、その中でも明確に気づいたことは、自分自身の内面に「アンチブラックネス」なるものが確かに存在する、刷り込まれている、という事実だ。アンチブラックネスとはすなわち植民地主義であるのだ。
「差別をしない善良な人間でいたい」という欲求が、自らの内側に巣食う人種主義や植民地主義を気づかせないように機能するのであれば、その誇大な自画像を脱ぎ捨てる必要があるだろう。
自分自身の内面にあるアンチブラックネスに気づくこと。それを受け入れること。それは自分自身に巣食う植民地主義と向き合うことにつながる。
問題を取り除くためには、その問題をまず発見しなければならない。
発見すらできず、見えているものを見ることもせず蓋をしてしまうのであれば、それを取り除く道は遠のいてしまうばかりだろう。
フランスの植民地であったマルティニーク島に生まれ、アルジェリア独立運動において中心的な役割を担った思想家であり精神科医であるフランツ・ファノンはかつて、著書『黒い皮膚・白い仮面』において、自らの内面に巣食う白人性と植民地主義を取り除くため、自分自身にメスを差し込んでそれを読者に開示した。麻酔は存在しない。それは痛みを伴う書籍であった。
私自身は自分自身にメスを差し込もうとすることができるのだろうか。
とどのつまり、植民地主義を知ることは、自分自身を知ることに他ならないのだ。
自分にできることは何か、考え、行動したい。

(2026.8.21 / 執筆・写真 田口ローレンス吉孝)
- 「憎悪のピラミッド(Pyramid of Hate)」の概念的土台は、社会心理学者ゴードン・オールポート(Gordon Allport)が著書『偏見の心理(The Nature of Prejudice)』で提唱した「偏見の5段階(Scale of Prejudice)」です。オールポートは偏見が虐殺(ジェノサイド)へと段階的に拡大していく構造を示しました。その後「憎悪のピラミッド」を教育ツールとして広く可視化・普及させたのは、アメリカの非営利団体ADL(Anti-Defamation League)です。この概念図は本来、ホロコーストやルワンダにおける虐殺など、歴史上の悲劇から学び、二度と同じ過ちを繰り返さないために人類全体へと警鐘を鳴らすものだと理解しています。その一方でADLは、特に2023年のガザ侵攻以降、イスラエル政府の軍事行動・占領政策に関しては一貫して親イスラエル的な立場をとっており、そのダブルスタンダードは到底容認できるものではありません。詳細につきましては下記記事も参照ください。 https://d4p.world/news/24135/ ↩︎
- 韓裕香さんは、渋谷区、世田谷区を拠点とする、20代在日コリアンコミュニティ『渋世もいん』を運営しています。ここには50人ほどの20代在日コリアンメンバーが所属しており、月に一度メンバーで食事会をしたり、ルーツに関する学習会を開いたりしています。 ↩︎
Writerこの記事を書いたのは
Writer

社会学者田口ローレンス吉孝Taguchi Lawrence Yoshitaka
専門は社会学・国際社会学。著書『「混血」と「日本人」 ―ハーフ・ダブル・ミックスの社会史』(青土社、2018年)、『「ハーフ」ってなんだろう? あなたと考えたいイメージと現実』(平凡社、2021年)。「ハーフ」や海外ルーツの人々の情報共有サイト「HAFU TALK」を共同運営。
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