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帝国主義、植民地主義の轍は今も―北海道朱鞠内「笹の墓標強制労働博物館」に刻まれた歴史

強制労働により造られた雨竜第一ダム。(安田菜津紀撮影)

白い花を咲かせる蕎麦畑が風にゆれている。

北海道雨竜郡幌加内町(※) は、作付面積・生産量ともに日本一を誇る蕎麦の産地だ。どこまでも広がる白いさざなみの先には、深い森の生い茂る山脈が続く。こうした緑色を、「千年を経ても変わらない、永久不変の緑」という意味で、「千歳緑」とも呼ぶそうだ。しかし、人間の命の尺よりはるかに長く鎮座している山々は、幾度となく繰り返されてきた、理不尽な歴史の目撃者でもある。

ここは北海道ではなく、アイヌモシリだった──。

2024年9月に幌加内町朱鞠内で開館した「笹の墓標強制労働博物館」の展示は、そんな説明から始まる。下記はそのテキストの抜粋だ。

明治維新後の日本政府は、北海道を植民地として開拓する数々の政策を推し進め、それまでのアイヌの生活圏はことごとく和人に奪われていきました。また日本政府がアイヌに「皇民化」と「創氏改名」を強要し、アイヌの生活様式まで奪っていったことは注目すべき点です。なぜなら日本のアイヌ政策には、後の朝鮮や台湾に対する植民地政策の原型というべきものがみられるのです。

「北海道というのは、もとから北海道だったわけではないんです」と、同博物館の館長を務める矢嶋宰さんが言葉を続ける。

「北海道は日本で一番最初の植民地です。創氏改名とか、土地を取り上げるとか。そしてアイヌの固有の風習、文化、生活様式を否定して、日本のものを押し付けていく。見ようによっては、明治政府は北海道を舞台に『植民地支配の実験』をしていたのではないかという見方もできます。これが、領土を拡大していく、帝国主義化していくということにつながっていくわけですよね」

(※) 雨竜はアイヌ語の「ウリロペツ(鵜の多い川)」に、幌加内は「ホロカナイ(逆戻りする川)」に由来する地名とされている。

笹の墓標強制労働博物館。(安田菜津紀撮影)



人間を使い捨ての歯車とする構造

明治政府による北海道の「入植植民地化」にはじまり、アジア太平洋戦争期における過酷な「強制労働」、そして現代社会にはびこる排外主義といった歴史の軌跡は、近代日本がたどった構造的な加害の歩みを克明に物語っている。

先住民族であるアイヌの人々は、自らの生活圏を「人間の大地」を意味するアイヌモシリと呼んできた。しかし、13世紀頃から和人の往来や罪人の配流がはじまり、15世紀後半以降には和人豪族による武力進出・侵略が本格化していった。1世紀以上に及ぶ和人の侵略が続き、抵抗したアイヌは容赦なく虐殺された。

江戸時代末期には松前藩がアイヌを隷属化し、恣意的な略奪交易や搾取によってその人口を激減させるに至る。和人による支配が、急速に拡大していった。

その後の明治政府による「同化政策」や、「創氏改名」の先駆けとなる日本風の姓名への改名強要は、沖縄、台湾、朝鮮半島への領土拡大と植民地支配においても、同様の支配構造として、拡大・反復されていくこととなる。

博物館の展示を案内しながら解説する矢嶋館長。(安田菜津紀撮影)

北海道は石炭の採掘・開発の一大拠点となり、インフラ整備や資源開発が急務となった。開拓現場では、人間性を著しく否定する過酷な労働体制が敷かれていくことになる。

明治初期には月形や空知、釧路、網走などに設置された集治監の囚人たちが、中央道路などの幹線道路開削や鉱山労働に動員された。当時の内閣大書記官であった金子堅太郎は、「工事労働に従事させもし耐えられずに死んでしまい囚人の数が減るなら、監獄運営が困難なことを考えると好都合な政策だ」と提言し、囚人労働を推奨した。つまり、囚人なら無理な労働に使役しても構わず、死んだら死んだで「口減らし」になり好都合ということだ。人間を使い捨ての歯車としか見ていないことがわかる。

囚人労働は1894年に廃止されるが、それに代わって登場したのが、民間の業者や紹介所を通じた「タコ部屋労働」であった。「タコ部屋労働」では、甘言や詐術を用いて集めた労働者を、牢屋のような格子がはめられた飯場に閉じ込め、拘禁状態で重労働を強いた。

食費や宿泊費、道具代などが給与から過剰に天引きされ、意図的に借金を抱え込ませる構造が作られていたため、定められた契約期間が過ぎても、解放されずに労働を強要され続ける事態が横行した。



強制徴用という人間狩り

1931年の満州事変から1945年の敗戦に至るまで、日本は足かけ15年に及ぶ侵略戦争を継続したが、日本人が戦場へ動員されるにつれ深刻化した労働力不足を、やがて朝鮮人の強制連行によって補うため、政府は朝鮮人労働者を「移入」させる「労務動員計画」を決定した。

「日本の男性は軍隊にとられますから、当然日本国内の労働力が不足するわけです。それを補うために国家総動員法や徴用令なんかが出されて、日本の女学生たちが動員されたのと同じように、朝鮮でも労働力を送り込むために朝鮮人たちが動員をかけられました」

「これには大きく三段階があって、最初の段階では『募集』という形態で取ります。これはタコ部屋労働者を集めるために職業斡旋業者がやったのとまったく同じ手口で、貧困層の人々に『日本に行けば金も儲かるぞ、飯も食えるぞ』と甘言でささやき、騙して連れてきたわけです」

こうした朝鮮の人々の貧困の背景には、朝鮮総督府や日本の国策会社による、土地や主要産業の独占など、日本の植民地支配による徹底した経済搾取があったことも忘れてはならない。

「1942年ぐらいになってくると、今度は行政機関と民間の業者が結託した『官斡旋』に、そして1944年の9月以降になってくると、『徴用』になっていきます。各村に『何人出せ』とノルマを課し、人間狩りみたいな形で、朝鮮人たちを強制徴用するという形になりました」

ここで重要なのは、三段階それぞれ呼称は違うが、いずれも実質的な「強制労働」だったということだと、矢嶋館長は語る。

「戦局が激化すればするほど、露骨に強制性というのが見えてくるわけですね。ただここで気をつけなきゃいけないのが、その連れてくる過程の方法や呼び方の違いはあれど、じゃあ“連れてこられた現場でどうだったか”ということです。『募集』『官斡旋』であっても、『徴用』であっても、連れてこられた現場で行われた労働の本質は、いずれも過酷な強制労働でした。『募集』という呼称だけ見ると、“自らの意思で来た”かのような印象を受けるかもしれませんが、蓋を開けてみると、そういうことではないということですよね。さまざまな甘言で騙して連れてきたり、前借金を負わせて連れてくるという方法だったわけですから」

国際労働機関(ILO)の専門家委員会は1999年の年次報告書等において、太平洋戦争中の日本による軍「慰安婦」問題および「強制徴用(労務動員)」について言及し、これらを「ILO第29号条約違反(強制労働)である」と認定・指弾しているが、日本政府は認めていない。


産業慰安所、何重にも歪んだ構造

さらに1942年には「華人労務者内地移入に関する件」が閣議決定され、中国人に対する強制連行も開始された。

日本全土で動員された人数は朝鮮人が少なくとも67万人、中国人が4万人にのぼり、そのうち北海道では約14万5千人の朝鮮人が過酷な労働に従事させられた。

また、こうした強制連行の本格化に伴い、朝鮮人女性も「慰安婦」として動員されることとなり、労働現場の周辺には企業が運営に関わる「産業慰安所」も急増していった。植民地支配に基づく民族差別と性搾取が重なり合い、何重もの暴力構造が積み上げられていった。

「ここで出てくる慰安所というのは、一般的に認識されているような日本の軍隊の慰安所ではなくて『産業慰安所』と呼ばれるものです」と、矢嶋館長が解説する。

「これは企業が生産効率を高めさせる──その“手段”としての『慰安所』でした。『慰安所』に送り込まれたのは日本人女性だけでなく、朝鮮半島から連れてこられた女性たちも含まれていました。そしてこの施設は、日本人労働者のみならず、強制労働を強いられていた朝鮮人など、出自に関係なく、現場の労働者に利用されていたのです」

強制徴用やタコ部屋労働を強いられていた人々が、性的差別・搾取の構造においては、女性を加害・消費する側に組み込まれるという歪んだ構造が作られていた。

博物館に展示されている地図からは強制労働の現場や「産業慰安所」が北海道各地に存在していたことがわかる。(佐藤慧撮影)



戦時強制労働の惨禍

朱鞠内における雨竜第一・第二ダムの建設や、名雨線(のちの深名線)の鉄道工事は、この戦時強制労働の惨禍を象徴する現場のひとつだ。

王子製紙や下請けの飛島組などの主導のもと、重機のない時代に無謀な足場と人力のみで行われた工事現場では、過酷な労働環境のなかで、病死や怪我、衰弱死、見せしめのリンチなどによって多くの命が奪われた。

雨竜ダム建設によって造られた朱鞠内湖は、日本屈指の面積を誇る「人造湖」だ。雨竜川の最上流域にあたるこの地は、周囲を山に囲まれながらも内部が平坦かつ広大な盆地状になっており、川の出口をせき止めるだけで膨大な水を貯められる「天然の器」を備えていた。さらに、その水を山を貫くトンネルで導き急激な落差を得ることで、莫大な電力を生み出せる立地条件も揃っていた。戦時体制へ突入するなか、この地は軍需産業を支える最優先の開発拠点として位置づけられていく。

朱鞠内湖(雨竜貯水池)。見えているのはほんの一部分に過ぎない。(佐藤慧撮影)

冬期には気温が零下40度を下回る過酷な環境下で、膨大な数の労働者が投入された。以下は博物館に展示されている、実際に強制労働の現場にいた方の証言だ。

第一工区だけでも(朝鮮人は)2000人ぐらいはいただろう。 脱走して捕まると全員の前で見せしめのリンチをされる。 気を失うほど殴って、気を失うと水をかけて気を戻らせてまた殴る。 これを何度も繰り返して死に至らしめることもあった。 負傷したり病気になった者も飯場に残しておくことはなく、モッコ(運搬用の道具)で担いで作業場に連れていき、座らせて縄をなってモッコの修繕などの仕事をさせられた。

当時の朱鞠内の住民たちは、春の雪解けの季節に沢へ入ると、労働者の遺体が横たわっているのを発見したり、雨竜川を遺体が流れ下っていく光景を目撃したと語る。

10年間の工事期間に200人余りが命を落とし、そのうち少なくとも45人は朝鮮から渡ってきた人々だった。死亡した労働者の多くはダム工事現場近くの寺院「光顕寺」に運び込まれ、簡素な位牌を残して、朱鞠内共同墓地のはずれに埋葬された。

こうした歴史を掘り起こしたのが、1970年代に始まった市民や教員、宗教者らによる「民衆史掘り起こし運動」だった。小池喜孝さんらによる「オホーツク民衆史講座」の活動や、1976年に殿平善彦さんらが結成した「空知民衆史講座」は、「開拓の美談」の陰に隠された囚人労働、タコ部屋、アイヌ侵奪、朝鮮人・中国人強制労働の史実を調査しはじめた。

朱鞠内の光顕寺や法宣寺に残されていた位牌、幌加内町役場で見つかった埋葬認許証などの分析を重ね、犠牲者一人ひとりの名前や出身地、その死の様相が少しずつ明らかとなっていった。

その後、遺骨を掘り起こし故郷へ返還する取り組みが実行に移され、1997年には、韓国の人類学者である鄭炳浩(チョン・ビョンホ)さんと殿平さんらの呼びかけにより、日韓共同の遺骨発掘ワークショップが発足した。この取り組みは次第に在日コリアン、アイヌ、台湾など多様な背景を持つ人々が集う「東アジア共同ワークショップ」へと発展し、30年近くにわたり、若者たちが対話と合宿を重ねる場となっている。

雪解けとともに労働者の遺体が見つかったという朱鞠内川。(安田菜津紀撮影)



名前すら剥ぎ取られて打ち捨てられる

「この墓地の奥です──」

矢嶋さんの案内で草木の生い茂る細い道を抜けていくと、古い墓石の建ち並ぶ、地域の共同墓地が見えてきた。その墓地を横目に、矢嶋さんはさらに奥へと歩いていく。

墓地のはずれ、背の高さほどの熊笹が生い茂るあたりに、土饅頭の形をした塚が見えてきた。横の木製の標識には「名雨線鉄道工事・雨竜ダム工事犠牲者之標」と書かれている。

「これは象徴的なものなので、中に遺骨が入っているわけではありません。2001年、最後の遺骨発掘をした時に掘り出した土を集めて、朝鮮式の土饅頭を作ったんです」

強制労働犠牲者の遺骨が見つかった現場につくられた塚。(佐藤慧撮影)

「強制労働の犠牲者たちは、この辺りに埋められていました」

土饅頭の塚の奥には、濃い緑色の熊笹が鬱蒼と生い茂っている。

「うちの博物館は『笹の墓標』という名前ですよね。普通、墓には墓石や卒塔婆があるわけです。ところが、墓地のはずれに打ち捨てられていた人々の埋められた場所には、何も残されていませんでした。遺骨を最初に発見した人々は、その熊笹が“墓標”のように見えたということで、今の博物館に続く『笹の墓標』という名前が使われるようになりました」

共同墓地の側に埋められた人々の遺体は、棺桶に入れられ、地中深くに埋葬されている。ところが、強制労働者たちの遺体は、せいぜい70~80cmほどの浅い穴に埋められていたそうだ。折り重なった状態で遺骨が発見されたケースもある。

「そうした乱暴な埋葬方法だったので、土の中で遺体が腐敗すると、そのぶん地中に空洞ができる。そこがボコッとへこんでいきます。その穴が目印となって、どこに犠牲者が埋葬されたか特定できたということです」

共同墓地のはずれの熊笹。(佐藤慧撮影)

塚の前には金属のパネルが埋め込まれており、犠牲者の名前が刻まれている。その名前の横には出身地、そして生年月日が記されているが、《本籍地不詳》《年齢不詳》となっているものも多い。パネルは2枚あり、右側が日本人のタコ部屋労働犠牲者、左側が朝鮮人の強制労働犠牲者たちの名前となっている。

「創氏改名させられた名前しか判明していない人もいます。本名がわからないんですね」

そうした人々の名前の欄は〇〇〇と、空白を示す丸が書かれている。そこにいた「誰か」は、名前すら剥ぎ取られて、墓のはずれに無造作に打ち捨てられたのだ。

年齢のわかっている犠牲者の大半が20~30代で、中には21~22歳の年齢も目立つ。

神戸学生青年センター出版部による『戦時朝鮮人強制労働調査資料集 増補改訂版 -連行先一覧・全国地図・死亡者名簿-』をめくると、日本全国、果てはサハリンから南洋まで、強制労働の記録が記されている。数えきれないほどの名前が並ぶが、これらはあくまで「判明しているもの」であり、先述の名前もわからない人物のように、歴史の暗部に押し込まれてしまった死も数多くある。

朱鞠内湖と発電所を結ぶ圧力トンネルや、雨竜第一・第二ダムの外壁、内部監査廊の剥き出しの天井や床──現在も目にできるこれらのコンクリート構造物は、80年以上も前の姿のまま残されている。多くの命と引き換えに造り上げられたその無機質な塊は、強制労働の惨禍を深く刻み込んだ“生き証人”としてこの地に佇む。

博物館に残されている位牌。名前の記載はなく、殺害された朝鮮人男性3名の位牌であることのみが伝わる(裏面には、表に記されている昭和21年の約1年前、すなわち戦時中に殺害事件があった旨が記されている)。(佐藤慧撮影)



遺骨は静かに問い続けている

博物館には、北海道と東アジアで起きた出来事が並ぶ年表が展示されている。《1868年 明治維新・日本帝国主義の開始。》からはじまり、《1869年 日本政府、アイヌモシリに“開拓使”を設置し土地の名称を北海道に変える。》《1879年 日本、琉球王国を解体し、沖縄県設置(琉球処分)。》《1895年 下関条約締結、日本による台湾植民地支配開始。》《1910年 日韓併合により朝鮮の植民地支配が全面化。》などと続く。

1945年を見ると、《米国、広島と長崎に原爆投下。多数の朝鮮人・台湾人・中国人・東南アジアの留学生、連合軍捕虜なども死亡。》と書かれている。

矢嶋館長はこう話す。

「原爆で広島、長崎の日本人が被害を受けたということは世界で知られているわけですよ。ところが被害者の中からこぼれ落ちている人たちもいるわけですね。そういった人たちのことを伝えたいということで、このような表記にしています」

原爆による大量殺戮については、当然その背景にあったアメリカ側のアジア人に対する差別や加害責任も無視することはできない。二度と惨禍を繰り返さないためにも、世界史に刻み、検証・反省し続けることが必要だろう。しかし「戦争被爆国である」という言説“だけ”にスポットがあてられると、ときに「日本による差別・加害」が見えづらくなるという側面はないだろうか。

さらには国籍や居住地を理由に切り捨てられてきた人々に対する、いまだ行き届かない日本政府の補償にも問題(※)が残る。

(※)日本政府は戦後長らく、朝鮮半島や台湾に帰還した被爆者、および海外在住の被爆者を被爆者援護法等の枠組みから除外してきた。当事者や支援者による長年にわたる裁判を経て、ようやく海外からの手帳取得や医療費の全額支給などが認められたが、それまで放置されてきた期間の責任を問う「国家補償」の実現には至っていない。また、被爆二世・三世への援護など、現在進行形で行き届いていない問題も山積している。

「加害の歴史」を調べていてあらためて痛感するのが、帝国主義・植民地主義を推し進めてきた日本による人権蹂躙の圧倒的な規模と、その反省を社会に十分に根付かせてこなかったことによる、現代社会に通じる差別構造の問題だ。

「日本は他国より優越している」と、無謀な戦争、侵略へと突き進んだ時代は、それほど昔のことではない。ひとつ歯車を掛け違えれば、それは容易に、今のイスラエルがパレスチナの人々に対して行っているようなジェノサイドにつながりうる。

哲学者・詩人のジョージ・サンタヤナは、かつてその著『The Life of Reason』(1905年出版)にこう記した。

過去を記憶できない者は、同じ過ちを繰り返す運命にある。
Those who cannot remember the past are condemned to repeat it.

「加害の歴史」を見つめ、真摯に向き合い続けること──。それは、今なお社会のあちこちに存在する差別や排除の根源と対峙することでもある。過ちを二度と繰り返すことのないよう、遺骨は今も静かに問い続けている。

湖の水を発電所へ「落とす」圧力トンネルは現在も使用されている。(佐藤慧撮影)

▶参考文献
『和解と平和の森 北海道・朱鞠内に朝鮮人強制労働の歴史を刻む』(高文研)著:殿平善彦
『戦時朝鮮人強制労働調査資料集 増補改訂版 -連行先一覧・全国地図・死亡者名簿-』(神戸学生青年センター出版部)編著:竹内康人
Writerこの記事を書いたのは
Writer
フォトジャーナリスト / ライター佐藤慧Kei Sato

1982年岩手県生まれ。認定NPO法人Dialogue for People(ダイアローグフォーピープル/D4P)フォトジャーナリスト。同団体の代表。世界を変えるのはシステムではなく人間の精神的な成長であると信じ、紛争、貧困の問題、人間の思想とその可能性を追う。言葉と写真を駆使し、国籍−人種−宗教を超えて、人と人との心の繋がりを探求する。アフリカや中東、東ティモールなどを取材。東日本大震災以降、継続的に被災地の取材も行っている。著書に『しあわせの牛乳』(ポプラ社)、同書で第2回児童文芸ノンフィクション文学賞、『10分後に自分の世界が広がる手紙』〔全3巻〕(東洋館出版社)で第8回児童ペン賞ノンフィクション賞など受賞。

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