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取材レポート

2023.11.17

最後の放送を前に「自分はもう死んだ」と思った――韓国・光州民主化運動、苦しみは今も消えず

安田 菜津紀 Natsuki Yasuda

安田 菜津紀Natsuki Yasuda

佐藤 慧 Kei Sato

佐藤 慧Kei Sato

田中 えり Eri Tanaka

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安田 菜津紀 Natsuki Yasuda

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佐藤 慧 Kei Sato

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田中 えり Eri Tanaka

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安田 菜津紀 Natsuki Yasuda

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田中 えり Eri Tanaka

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安田 菜津紀 Natsuki Yasuda

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田中 えり Eri Tanaka

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安田 菜津紀 Natsuki Yasuda

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田中 えり Eri Tanaka

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安田 菜津紀 Natsuki Yasuda

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佐藤 慧 Kei Sato

佐藤 慧Kei Sato

田中 えり Eri Tanaka

田中 えりEri Tanaka

2023.11.17

取材レポート #人権 #戦争・紛争 #平和 #政治・社会 #朝鮮半島 #安田菜津紀

「あの放送をするとき、“自分はもう死んだ”と思ったんです」

5.18記念文化センターの一角で、パク・ヨンスンさんは静かに、けれども凛と響く声で、「あの放送」の日を振り返った。1980年5月、韓国・光州は民主化運動と、それを弾圧する軍による暴力の渦中にあった。27日早朝、市民たちが拠点としていた当時の道庁舎に戒厳軍がなだれ込む。国楽を学ぶ学生として、伝統楽器・伽耶琴(カヤグム)と歌を得意としたヨンスンさんの声はよく通り、軍の制圧直前、道庁から街に向けた最後の放送を担った。

街の外へと続く道を封鎖された上、通信も遮断され孤立状態となった光州では、人々が辛うじて秩序を保とうと奔走していた。声をあげる市民に対し銃口を向ける軍は、どれだけ残忍な虐殺を行おうとも、あくまでも「自衛」だと正当化し続けた。

あの放送の日まで、そして「死んだ」と思ったあの日から、ヨンスンさんが歩んできた道のりを聞いた。

パク・ヨンスンさん。5.18記念文化センター前にて。(撮影:安田菜津紀)

 

目の当たりにした集団発砲

 

1979年10月、独裁体制を敷いた韓国・朴正煕(パク・チョンヒ)大統領が暗殺され、これで時代が変わるだろうと、民主化を求める市民たちは湧き立った。ところが、ほどなくして全斗煥(チョン・ドゥファン)らがクーデターを起こす。軍部独裁体制は、崩れなかった。

1980年5月18日朝、全南大学封鎖に抗議する学生らのデモに対し、戒厳軍は力づくで鎮圧を試みた。デモは道庁前広場に続く大通り、錦南路(クムナムロ)など市内の中心で継続されるが、21日、軍は大規模な発砲で、市民らをねじ伏せにかかった。母校で音楽の練習をした帰り道、ヨンスンさんはその集団発砲にさらされ、次々と絶命していく市民たちの姿を目の当たりにする。

「その怒りによって、私はマイクを取ることに決めたんです」

当時は手軽に使えるレコーダーもなければ、スピーカー付きの街宣車もない。地元の家電店で売っていた小型のスピーカーを乗せた車から、ヨンスンさんは放送を繰り返し、市民に状況を知らせ続けた。

1980年5月、道庁前に集まる人々を写した写真。(撮影:安田菜津紀)

 

最後の放送、そして戒厳軍が

 

最後の夜、ヨンスンさんが同庁に残ったのは「たまたま」だったという。普段は身の安全のため、深夜になる前に車で自宅まで送り届けてもらっていたところ、26日は夜遅くに、その車がパトロールに出てしまったのだ。最後まで道庁に残った女性は、ヨンスンさんひとりだった。

そこに戒厳軍が迫ってきた――。放送原稿のメモを渡されたとき、「ああ、自分はもう死んだ」と瞬時に思ったという。

「私は21日の集団発砲を目の当たりにしています。どんな風に銃が乱射されて人々が死んだか、その光景が目に浮かんだんです。この後、軍が突入してくる、自分はこれから死ぬ、と考えながら放送することがどんな気持ちか、体験しないと分からないかもしれません」

27日早朝、込み上げる涙を抑え込みながら、ヨンスンさんは道庁1階の放送室から、街中に語りかけた。

「市民の皆さん、戒厳軍が攻めてきます。私たちは最後のひとりまで戦います。私たちを、忘れないで下さい」

この放送が途切れた途端、全ての電源が落ち、暗闇に銃声が響き渡った。ヨンスンさんは突入してきた戒厳軍によって、道庁から引きずり出される。

「どこのどいつがあの放送したんだ!八つ裂きにやる!」

そんな軍人の怒声に思わず気絶をしてしまったヨンスンさんは、目を覚ました時には、軍部の尚武台営倉に連行されていた。

殺風景な広い部屋の中で、何人もが同時に取り調べを受けており、目の前で男性たちが激しい殴打を受け、血を流しながら引きずられていった。自身も屈辱的な言葉や性的な罵声を浴びせられたが、目の前のおぞましい暴力行為に体が固まったままだった。性的な嫌がらせは、今でこそ「セクハラ」という言葉があるが、当時はそう認識することもできなかった。

「本来であれば人権侵害であることばかりでしたが、当時の私たちにはその人権自体がありませんでした」

ヨンスンさんは「内乱罪」の疑いで逮捕となり、「取り調べ」と称した拷問で頭をひどく殴られたときの傷は、今もはっきり残っているほど深い。あまりに続く暴行に、腎不全で病院へ搬送されたときには、輸血をしなければ即死に至るほど重篤な状態だった。

「けれどもその輸血を、一度は拒否しました。もうこれ以上、生きたいと思えなかったのです。生きる意欲がなくなって、どうせ死刑にするなら早くしてくれと思ったぐらいでした」

道庁前に設置されている当時の悲劇を伝えるモニュメント。(撮影:安田菜津紀)

 

自身の経験を「証言せざるをえなかった」

 

結局ヨンスンさんは、刑執行免除を受ける。しかし外に出てからも、腎臓の後遺症や精神的な問題で、1年間病院から離れることができなかった。

「私の20代は消えてしまいました。こうして、前科者になってしまった訳ですから。学校も除籍になりましたし、たとえ卒業できていたとしても、何もできることがなかったでしょう。社会人として出会える友達はひとりもいませんでした。民主化運動に関わった人間は”暴徒”扱いでしたし、私に近づくと何かの不利益があるだろうと、避けられていました」

大学時代に付き合っていた男性が、「一緒にここを離れよう」と声をかけてくれたとき、迷わず街を出ることを決めた。その男性と結婚し、30年間、光州を離れることになる。やがて夫も定年を迎えたとき、「死ぬ場所は故郷だ」と、2010年に帰郷を決めた。

2015年、ようやく再審で無罪となるも、長年心身を蝕んできた苦しみが解消されるわけではない。当時を思い出す度、「取り調べ室」に心が引き戻される。43年間、精神安定剤と睡眠導入剤が手放せなかった。そして今も腰のリハビリを続け、なんとか持ちこたえている。

それでも自身の体験を語るようになったのは、「証言せざるをえなかったから」だという。

光州民主化運動の歪曲情報を流す中心人物ともいえる、影響力の強い極右言論者が、インターネット上で繰り返しヨンスンさんについて、「北の特殊工作員」だというデマを流していたのだ。結局それは、罰金刑でしか処罰されなかった。

また、映画『華麗なる休暇』(邦題:『光州5・18』)では、「最後の放送」を道庁からではなく、車両で街中を回りながら行うシーンがある。その創作された場面がひとり歩きし、一体何が真実なのか、自らの言葉で語らざるを得なくなってしまったのだ。自身の証言と、それを裏付ける資料を提示し、ようやくこの論争には終止符が打たれたものの、この民主化運動に関わる根拠不明の情報やデマは今も後を絶たない。

「40年以上経った今も、当時何が起こったのか、一つひとつの真実を追求していかなければならない状況にあるんです」

 

女性たちの役割は「補助的」なのか

 

下記記事では、これまで民主化運動の中で「補助的」と見なされてきた女性たちの役割について伝えている。

厳しく報道が規制される中、街で何が起きているのか、飛び交う情報の収集や整理を担い、さらには連行されていった人々の解放を求め、何度拘束されても命がけで路上に繰り出す女性たちがいた。

ヨンスンさん自身も、「女性たちの闘いがなければ、この光州の運動はあり得なかったでしょう」と強く語る。

女性たちは街頭放送を続け、市民軍の顔を覆うマスクを配布し、遺体の収集も担った。21日の集団発砲後には、けが人たちのための献血をしきりに呼びかけた。

「献血にいち早く乗り出していたのは、若い女性たちです。道庁の周りには風俗街があり、そこで働く女性たちも、勇気を持って献血に貢献したんです」

外部と遮断された環境下、7日間の無政府状態で、市民の大きな混乱が起きずに治安を守れたのは、女性たちがその土台を作っていったからだとヨンスンさんは感じている。

「ただ、非常に残念なのは性暴力の問題です。当時、軍による集団性暴力を受けた人は、ひとりやふたりではありません。それをいまだに自分の中だけで抱えて生きていかなければならない人たちがいます」

近年ようやく、当時戒厳軍・捜査官から女性たちが受けた性被害が明るみになり、2018年11月、韓国政府が公式に謝罪するに至った。被害者の中には、10代の少女や妊婦も含まれていた。ただ、確認された声はまだ、被害のごく一部とみられている。

 

「なかったこと」にされてきた声

 

2019年5月18日、当時の文在寅(ムン・ジェイン)大統領も出席した光州民主化運動39年の式典で、ヨンスンさんは、道庁からの「あの放送」を再現した。

「市民のみなさん、戒厳軍が攻めてきます。私たちは最後のひとりまで戦います。私たちを、忘れないで下さい」

一言一句違えず、そらで語り切ることができた。なぜならそれは取調室での拷問を受けながら、「お前はどんな放送をしたんだ!」と、何十回と繰り返させられたセリフだったからだ。

「当時まだ若い女性だった自分と今の自分とでは声も違うと思いますが、やっぱり心の中でこみ上げてくるものがありました」

当時戒厳軍は、抵抗し声をあげる市民に「暴徒」というレッテルを張り、「北朝鮮のスパイ」だというデマを流布した。その偏見は今でも根深く、当時を生きた人々の尊厳をえぐり続けている。

中でも女性たちの経験はことさら「なかったこと」にされ、あるいは歪曲され、声をあげることすら難しい構造は今も残っている。そうした「沈黙を強いる社会」にあって、ヨンスンさんの声をはじめとする当事者の証言を真摯に受け止め、史実を継承していくことが今求められている。

光州市街中心部。中央右下の円形の構造物が道庁前広場の噴水。(撮影:安田菜津紀)

(2023.11.17 / 安田菜津紀)

 

2023年7月27日は、朝鮮戦争「休戦協定締結」から70年という日でした。あくまでも「休戦」であり、緊張状態は続いています。下記の配信では、徴用工裁判の現状についてや、韓国在住ジャーナリスト徐台教さんにご案内頂いた軍事境界線近辺の様子、そして1980年5月18日から27日にかけて光州市(現在は光州広域市)で起きた「光州事件」など、現地で収録してきた音声を交えて報告しました。ぜひ記事と合わせてお聴きください。

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2023.11.17

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