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2019冬特集【レポート】「幾度もの冬を越えて」(陸前高田市)

この冬、Dialogue for Peopleでは「誰かの暮らしに思いを馳せる」をテーマに、シリーズで情報を発信するとともに、厳しい冬の環境に生きる方々への取材など「伝える」活動を継続するための寄付を広く募集しております。写真や文章に登場する方々の暮らしに思いを馳せていただくことで、世界への関心が広がることを願っています。

今回は、まもなく震災から9年が経とうとしている東日本大震災の被災地、岩手県陸前高田市に暮らす佐藤一男さんの生活の移り変わりから、震災の現在を考えます。


2011年3月11日、マグニチュード9.0という、日本の地震観測史上最大規模の揺れを記録した、東北地方太平洋沖地震が発生した。それに伴う巨大な津波が東日本沿岸地域を直撃し、多くの町々が壊滅的な被害を受けた。「東日本大震災というのは、その地震による被害のことです。単に地震や津波のことを表しているわけではありません。復興の途上にある地域は、いまだ震災の渦中にあるのです」。そう話すのは、岩手県陸前高田市に暮らす佐藤一男さん(54)。この3月で9年を迎える東日本大震災の現在を、佐藤さんの生活の移り変わりから考えていきたい。

元々牡蛎漁師を営んでいた佐藤さんは、海上でその揺れを経験した。「ただごとではない」という恐怖で陸地を見やると、山が咆哮(ほうこう)を上げるように震えていた。即座に港に戻り、その目の前の自宅に戻る。幸い家族はみな無事だったが、その後襲来した津波は家々を跡形もなく呑み込んでいった。

自宅跡地に立つ佐藤一男さん。(撮影・佐藤慧)

自宅を失った佐藤さんは、その後小学校の体育館での避難所生活を経て、同小学校の校庭に立てられた仮設住宅へと移り住むことになる。あらゆる人々が疲弊し、心に傷を負った中で、佐藤さんは避難所の運営や、仮設住宅の自治会長として働き続けた。地域の消防団としても活動していた佐藤さんは、震災時にひとりの親友を失っている。避難を呼びかけに市街地へと向かった親友は、そのまま津波に呑まれ、帰らぬ人となったのだ。

「もともと私はそんなに人のために働くような人間ではなかった。でも、親友の死を思うと、彼の代わりに自分のできることを精いっぱいやらなければ、と思うようになったんです」。そう語る佐藤さんは、震災後に防災士(※1)の資格を取得、現在の本業である、特定非営利活動法人「桜ライン311」(※2)の仕事のほかに、全国で防災に関する講演活動を続けている。

陸前高田市の震災による死者・行方不明者は約1,800人。被災世帯数は、全8,069世帯のうち4,063 世帯(50.4%)にも達し、2,000戸を越える仮設住宅が建設された。それから6年後の2017年、佐藤さんが自治会長を務めていた仮設住宅は、自宅の再建により離れる人も増え解散。佐藤さんを含め、様々な事情で自宅の再建の叶わない人々は、隣の仮設住宅へと引っ越した。避難所から仮設へ。そしてまた次の仮設へ。当時は「いつまで仮設暮らしが続くかわからない」という状況に、不安の募る日々だったという。

引っ越し先の2度目の仮設住宅。居室の狭さなど、生活上の不便は変わらない。(撮影・佐藤慧)

住環境が変わりゆく中で、「寒さ」には何度も困らされた。3月、4月の陸前高田市は、まだ吹雪くこともある「冬」である。被災直後から約2ヵ月過ごした体育館は、元々避難所指定されていた場所ではなかったため、物資も備蓄されておらず、暖房器具や毛布といった物資も足りなかった。「体育館は天井が高く、ストーブの熱もあっという間に逃げていきます。暖を取るには厚着をするしかなかったのですが、被災直後は十分な服もありません」。寒くて寝られないという人々も多かった。小学1年生の長女と入学を控えた次女、そして1歳半の長男のことを考えると、心配の絶えない生活だった。

2011年3月末の陸前高田市。例年にも増して吹雪の多い年だった。(撮影・佐藤慧)

約2ヵ月に及ぶ避難所生活の後、避難所となっていた体育館の隣の校庭に仮設住宅が建てられ、やっとそれぞれの家庭に「壁」のある生活へと移ることができた。しかし、広範囲に甚大な被害を出した震災被災地全てに仮設住宅を建設するのは容易なことではない。あくまで「仮設」に過ぎない建物は、冬が来る度に改修を迫られた。

冬場氷点下となる地域なのに、風呂に「追い炊き」がついておらず、急遽設置工事が行われた。「薄壁1枚で外と区切られているものだから、誰かが風呂をあがったらすぐに入らないと風呂場が寒いんですよ」。窓も当初は1枚で、部屋の熱がすぐ外へと逃げていった。2重窓に改修してからは多少ましになったものの、間に緩衝材などのない鉄骨の柱は、冬は凍り、夏は火傷するほどの熱さになった。

様々な支援が届いたが、佐藤さんの暮らす仮設住宅に配られた「ファンヒーター」は、ほとんど未使用のままだったという。「ファンヒーターって、熱風の出口にある程度空間が必要なんですよ。ところが、わずか9坪の仮設住宅では、そんな空間なんてない。ほとんどの方が使用せずに箱にしまったままでした」。消防団員でもある佐藤さんの元には、小火(ぼや)に至るまで街中の火事の情報が入ってくるが、この8年間、陸前高田市の仮設住宅では小火ひとつ起きていない。「よっぽどみなが気を遣って暮らしていたのだと思います」。神経の削られる生活の中、度重なる改修工事が行われたが、湿気やカビ、容赦なく室内の温度を奪っていく床の冷えにはいつまでも悩まされた。

雪の降り積もった仮設住宅。子どもたちは僅かに残された校庭で遊ぶ。(撮影・安田菜津紀)

そんな佐藤さんから、昨年2019年の末、嬉しい知らせが届いた。「仮設から公営住宅へと引っ越します。やっと自宅と言える場所に来ました。是非遊びに来てください」。

真新しい玄関のチャイムを鳴らすと、子ども達の元気な声がインターホンから聞こえてくる。玄関があり、台所があり、子ども部屋や居間もある。あたりまえの家の作りだが、それはこの9年近くもの間、願っても得られなかった空間だった。「最近寒くなってきましたが、仮設と比べると、まるで寒さの質が違うんです。壁ってこんなに温かかったっけと思ってしまったぐらいです」。妻の広江さんも、「床が冷たくないのよね!」と顔をほころばす。「今日は娘が友達を家に呼んでいるんですよ」と、佐藤さんが嬉しそうに言う。家に友達を呼ぶ、それぞれの部屋でくつろぐ、家族でこたつを囲み、小正月を穏やかに過ごす。9年目を目前に、やっとたどり着いた日常だった。

引っ越したばかりの公営住宅にお邪魔した。次の一歩が、ここから始まる。(撮影・安田菜津紀)

震災後約5,600人が市内の仮設住宅に入居していたが、2019年12月末の時点の入居者数は284名(110世帯)となった(※3)。少しずつ新しい街が広がり、高台にも新築の家が並んでいる。しかし、いまだ仮設暮らしを余儀なくされている人々の声は、年月を経るごとに届きにくく、その姿は見えにくくなっている。長引く仮設暮らしによる心労や、孤独死の懸念も深まる。個々の抱える困難を安易に「自己責任」と切り捨てず、それぞれの歩む速度で冬を越し、春を迎えられるように、耳を傾け続けていきたい。

(2020.1.23/文 佐藤慧)

※1 防災士:日本防災士機構の認定資格。自助、共助、協働を原則とした知識、救急救命技術などを身に着ける。
※2 桜ライン311:陸前高田市の津波到達点上に桜を植樹し、震災を後世に伝える為のプロジェクト。
https://www.sakura-line311.org/

※3 陸前高田市による回答。実際には仮設を退去した後も退去届を出していない世帯もおり、実数はこれよりも少なくなる。


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